使徒言行録2章1−11節「聖霊の賜物」
2025年6月8日
牧師 武石晃正
本日は聖霊降臨節第1主日、教会の誕生日とも言われるペンテコステでございます。私たちは主の降誕を祝うクリスマスや復活を祝うイースターにおいて「おめでとうございます」と挨拶をするのであれば、聖霊降臨節においても「ペンテコステおめでとうございます」と祝うのもよろしいでしょう。
ペンテコステが教会の誕生日であると聖書にはっきりと定義されているわけではないとしても、天に昇られた主イエスが約束どおり弟子たちへ聖霊を降されたことで神の国は地の上で新しい時代に入りました。五旬祭の日に神の霊に満たされた弟子たちが「“霊”が語らせるまま」に教会の産声を上げたことでありました。
聖霊によって主はおとめマリヤに宿られ地にお生まれになったように、聖霊によってキリストの体である教会が生まれました。本日は使徒言行録を開き、「聖霊の賜物」と題して読み説いてまいりましょう。
1.五旬祭という日について
「五旬祭の日が来て」(1)といよいよ弟子たちは主イエスが約束されたものを受け取る日を迎えます。五旬祭とは旬という字が10日間を意味するとおり過越祭から数えて50日目の祭であり、もともとユダヤの三大祭の一つ「七週祭」(出34:22)です。
小麦の収穫の時期に行われる祭であり、収穫への感謝として主なる神へ新しい穀物の献げ物をするものでした(レビ記23章15−21節)。7週間を数えるのでユダヤの言葉では七週祭と呼ばれすが、公用語として普及したギリシャ語に翻訳される時点で7日かける7週(49日)が明けた50日目の意味からペンテコステ(50日)と呼ばれるようになりました。
過越祭はイスラエルにとって出エジプトの出来事を記念するものであり、七週祭はモーセがシナイ山で主なる神から「律法」を授かったことの記念でありました。春の収穫の恵みに感謝しつつ、人はパンだけで生きるのではなく主の口から出るすべての言葉によって生きること(申命8:3)を覚えるのです。
過越祭の特別な安息日に臨んで主イエスは十字架にかかり、その3日目によみがえられました。過越は出エジプトつまり契約の民イスラエルの独立を祝う祭ですから、1章には復活された主を前に弟子たちが「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」(使徒1:6)と詰め寄った様子が記されています。
気がはやる弟子たちに向けて主イエスは「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(1:7)とお答えになりました。つれないようにも聞こえますが、主は40日に渡って弟子たちへ十分に神の国について説かれた上でこのようにお答えになったのです(1:3)。
主イエスを天へと見送った弟子たちとしてはあと1週間ほどで七週祭を迎えようというばかりです。イスラエルを率いてエジプトを出発したモーセが主なる神より契約を授かったことを覚えつつ、主イエスが「新しい契約」をお与えになるのはこの日ではないかいと期待しながら祈ったことでしょう。
もちろんここはシナイ山ではなくエルサレム、シオンの山とも呼ばれます。主なる神はシナイ山の上でモーセに顔と顔を合わせて契約の板を授けましたが、御子は御父が約束されたものとしてちょうど五旬祭のその日に聖霊を弟子たちへと賜ったのです。
旧約の時代に主は型をもって救いのご計画を示され、新約において御子ご自身が天より降って私たち罪人の身代わりとなって十字架にかかられました。復活の主が御言葉によって弟子たちに福音の真理を示し、天に昇られた後に約束どおりご自身の霊をも与えてくださったのがペンテコステの出来事です。
罪の奴隷であった者たちは御子が流された血によって贖われただけでなく、新しい契約において御言葉に自ら従う生き方に変えられるのです。エジプトの国、奴隷の家から導き出した神(出20:2)である方が、パンと杯によって示された新しい契約を教会に授けてくださいました。
2.聖霊に満たされた人たち
主イエスを天へ見送った弟子たちは「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻り、泊まっていた家の上の階に上がって集まりました(1:12-13)。そこには使徒たちのほか主の母マリアと共に従っていた女性たちがおり、なんと主イエスの兄弟たちまで集まって心を合わせて祈っていたというのです(1:14)。
どなたの家であるかは明らかにされておりませんが、「泊まっていた家」ということですので主の復活の日に弟子たちが戸に鍵をかけていたあの家であると思われます(ヨハネ20:19)。また大勢の人が集まって祈ることができるほどの家でありましたので、後の12章に記されている「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」(12:12)であったと考えることもできるでしょう。
弟子たちは主イエスが彼らに命じたとおり、エルサレムを離れずにじっと待って祈っておりました (1:4)。何を待っていたのかといえば「あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」(1:5)との約束であり、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(1:8)という祝福です。
エルサレムに弟子たちが滞在していることは主イエスも承知の上ですから、待たせるにしても何週間あるいは何か月ということはないはずです。弟子たちとしてはいつであるか定かではないながらも、七週祭こそ祈りの日々において一つの目当てであったでしょう。
それでも「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2)というのですから驚きです。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3)という不思議な光景も、使徒言行録を記したルカが弟子たちから聞いたままこのようにしか書き表せないものでありました。
しかし「激しい風が吹いて来るような音」が些細なことのように思えるほど、それ以上に驚くべき出来事が起こったのです。聖霊に満たされた弟子たち、しかも訛りの強いガリラヤ地方出身の者たちが俄かにほかの国の言葉で話し始めました (4)。
これはまさに「炎のような舌」(3)が弟子たち各々の上にとどまったことによるものでありました。「舌」という語は英語でも「言葉、言語」という意味があるように、聖書の中でも言語や方言を表す語が用いられています。
集まって祈っていた弟子たちは「皆ガリラヤの人ではないか」(7)と言われるほどに普段はガリラヤ訛りの強い言葉で話していたような人たちです。「天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」(5)たちが「自分の故郷の言葉が話されている」(6)とはっきり聞き取ることができたというのですから、地方の訛りが抜けないような者がすらすらと外国語で話し始めたということで驚いたのです(11)。
ルカは炎が降って弟子たちの心が燃やされたとは記しておりませんから、弟子たちは彼ら自身の熱意や感情で語り始めたのではなく「“霊”が語らせるまま」に語りだしたことです。それも恍惚状態で不可思議な言葉を発したのではなく「ほかの国々の言葉で話しだした」と明らかな外国語で語られたことが示されます(6)。
当時のエルサレムはユダヤの人々にとって信仰の中心地であり、ローマ帝国世界の各地から帰って来た人たちが住んでいました(5)。数々の国や地域の名が挙げられておりますのは単に彼らの出身地であるばかりでなく、聖霊に満たされた人々がイエス・キリストの福音を伝えるためにこれから遣わされていこうとしている先々を示しているのです(9-11)。
大昔、人の子らが天まで届くバベルの塔を建てようとしたために御怒りに触れ、主なる神は人間の国も言葉もばらばらに散らされました(創世記11:1-9)。すべての罪を贖ってくださる独り子である神が御父のもとから聖霊を下さったので、世界中に散らされていた者たちが都に集って各々の国言葉で神の偉大な業を語るのを聞くこととなりました(11)。
このようにして主イエスが天に帰られた後、約束どおり聖霊が弟子たちへと降りました。聖霊の賜物として上からの特別に大きな力を受けて、教会は「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」ために全世界へと広がり始めました。
<結び>
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」(イザヤ42:1)
力を受けると主イエスが弟子たちに言われたのですから、聖霊の賜物をいただかなければ人の意欲や努力では続けることができない働きがあるのです。言語の違いであれば今の時代にはかなり優れた機能の自動翻訳もありますが、聖書が私たちに救いについての全き知識を与えるのは聖霊によるものです。
聖霊によって生まれた教会が祈り、聖霊の支配を信じ、聖霊の導きに従うことで今日まで歩んできました。こうしてイエス・キリストの十字架の言葉が全世界へ伝えられ、聖霊の賜物によって今や東の果てにあるこの島国でも福音が正しく宣べ伝えられているのです。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)