マタイによる福音書3章1-6節「天の国は近づいた」

 2025年6月22日
牧師 武石晃正

 第二次世界大戦中の日本において教会が解散を強制され、多くの個人・家族・教会が苦しみを受けた「ホーリネス弾圧事件」は1942年6月26日に起こりました。これはホーリネス系の教会に対して治安維持法違反による一斉検挙が行われた日です。
 教師たちは逮捕され、文部省より命令を受けた日本基督教団からの強要により、ホーリネス系教会の教師は「自発的に」辞任願を提出したのです。米子教会が属しておりますホーリネスの群では信教の自由と政教分離の大切さを覚え、毎年この時期に弾圧記念聖会を行います(今年は本日6/22午後)。

 支配者からの弾圧は日本のホーリネス系の教会だけが受けたのではなく、旧約の預言者たちから新約では洗礼者ヨハネまでもが殉教しています。救い主であるイエス・キリストは迫害と弾圧の中で私たち罪人の身代わりとなって十字架にかかられました。
 死んで葬られ3日目に死人のうちよりよみがえられたキリストは弟子たちが見ている前で天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられます。この方が再び世に来られることを覚えつつ、本日はマタイによる福音書を開き「天の国は近づいた」と題して救いの恵みを味わい知りましょう。


PDF版はこちら

1.洗礼者ヨハネから始まった福音

 マタイによる福音書におけるイエス・キリストの降誕記事は「アブラハムの子ダビデの子」としての系図から始まります。一方でルカによる福音書はイエスに関する出来事に先立って洗礼者ヨハネの出生について明かしています(ルカ1:4以下)。
 したがって洗礼者ヨハネがナザレのイエスに先立つ人物として現れたことを知るにはルカによる福音書の助けを得ることになります。ヨハネは主の母マリアの親類であるエリサベトを母としており、イエスより半年ほど早く生まれた者でありました(ルカ1:36)。

 マリアへ受胎告知をした天使ガブリエルはエリサベトを不妊の女と呼んだうえでその懐妊を指し、「神にできないことは何一つない」(同37)と示したのです。洗礼者ヨハネの存在はマリアが聖霊によって主を身に宿す時点ですでに「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(3)と叫ぶ者のようであります。
 「主の道」と言われていますから、ヨハネによって示された道を主イエスが歩まれるのです。そして使徒たちも主と同じ道を歩むのですから、すなわち使徒的教会にもまた洗礼者ヨハネの教えを端緒とした道が敷かれていることです。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2)との呼びかけは後に主イエスの宣教の言葉となり、主に遣わされた弟子たちへと受け継がれました。福音書における「悔い改め」とは過去の罪や過ちを後悔するということではなく、心を入れ替えて態度を改めるという意味で用いられています。
 「天の国」は他の福音書では「神の国」とも記されており、どこかの場所を示しているというよりも天地万物の創造者である主なる神の支配を指しています。旧約の律法において「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出20:7)と戒められておりますから、ユダヤ人の人々は神や主という語を避けるためヨハネもその支配である「天の国」と宣べたところです。

 言い換えるならば「主なる神が近づいておられるので心を入れ替えて態度を改めよ」とヨハネは人々に伝えたのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(3)とマタイは預言者イザヤの言葉を引用し、救い主メシアとして来られる方を迎える備えをせよと読者に迫ります。
 さて洗礼者ヨハネが「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め」(4)ていたのは旧約の預言者エリヤを彷彿させるものでした(列王下1:8)。「いなごと野蜜」が何であるかについては諸説あるようですが、粗布をまとって断食することは主なる神の前にへりくだり悔い改める者の姿です(ネヘミヤ9:1ほか)。

 「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から」(5)やってきた人々が罪を告白し、ヨハネから洗礼を受けました(6)。ヨルダン川に身を沈められ水の中から上げられることにより、主なる神の前で新しい生き方に変わろうという人々でした。
 こうして洗礼者ヨハネによっていよいよ主の道が整えられ、救い主として来られた方が世に現れようとしています。十字架と復活のキリストが再び天から降りて来られることを知らされて、あなたにはその備えができているでしょうか。


2.皆悔い改めるように

 ヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネもガリラヤで天の国を説かれた主イエスも、どちらももっぱらユダヤの人々を対象にしておりました。ペンテコステにおいて聖霊を授かった使徒たちでさえ、当初しばらくの間はユダヤの会堂を中心にイエス・キリストの福音を宣べ伝えたものです。
 ですから「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)と宣べ伝えるにしても、聞く者たちは「律法と預言者の書」と呼ばれるいわゆる旧約を教えられていた人々でした。天地創造の主が唯一の神であると信じていた人々ですので、どなたに対して悔い改めるのかと話が通じる人たちです。

 他方で使徒パウロたちによってギリシャやローマへ福音が伝わると、そこは全くの異教の世界でありました。多くの神々を奉るような人たちが初めて創造主なる神が唯一の神であり、独り子である神が救い主であると聞かされることになりました。
 日本でも古来より八百万の神々が信奉されており、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出20:3)と命じられた方がおられるなどとは聞いたこともないようなところです。聞いたこともなければ知りもしなかったのであれば、創造主である唯一の神に従わなくてもよいということになるでしょうか。

 例えばこの世において法律や規則を知らなかったとしてもそれらに違反をすれば罪に問われるでしょう。あるいは知らずに罪を犯している人について見て見ぬふりをするならば、なぜ教えてやらなかったのか、なぜ引き止めなかったのかと問われることもありましょう。
 教会に与えられた使信は洗礼者ヨハネから主イエスへ引き継がれ、使徒たちに委ねられた教えです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と伝えることですから、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)とはっきり伝える必要があるわけです。

 使徒パウロが初めてギリシャのアテネでキリストの福音を宣べ伝えたとき、ユダヤの会堂ばかりでなくギリシャ式の広場での討論にも加わりました(使徒17:16以下)。この場においてパウロは人々が知らずに拝んでいると受け止めつつも「このような無知な時代」と呼んでおり、「どこにいる人でも皆悔い改めるように」と主なる神の命令をはっきりと伝えたのです(使徒17:30)。
 ところが裁きの日と死者の中からの復活について伝えたにも関わらず、多くの人々はパウロの言葉に耳を貸そうとしませんでした。「いずれまた聞かせてもらうことにしよう」(同32)と先延ばしにする人は結局のところ後からも聞きに来ようとしないものです。

 天の国の到来すなわちキリストの再臨は必ずあるのですから、教会は主なる神に対する悔い改めを宣べ伝えます。福音の言葉を明確に語らなければ人には伝わりませんが、伝えたところでただちに多くの者たちが信じるということでもないわけです。
 アテネにおいてパウロの言葉から信仰に入った者たちもおりましたが、パウロ自身はその場を立ち去ったのでした(同33)。天の国を説くのですから、この世の国とは対立することにもなるでしょう。

 ホーリネス弾圧事件について一概に述べることはできませんが、ホーリネスの特色教理である四重の福音のうちキリストの再臨を強調したことはその一因でありました。四重の福音という信仰が禁教とされたというよりも、キリストの再臨において今の時代とともに天皇の統治が終わるという点が治安維持法に触れたということでありました。
 しかしながら逮捕された教師たちの多くはそのことに無自覚であったというのです。自覚していたのであれば強調点に注意を払ったか、あるいは教会も教師の逮捕や解散を覚悟の上で再臨信仰を宣べ伝えたことと思われます。

 知らずに拝んでいるものだったとしても「どこにいる人でも皆悔い改めるように」と主なる神が命じておられます。ホーリネス弾圧という歴史を振り返るなかで、改めて私たちが四重の福音を新生・聖化・神癒・再臨についてその意味するところを正しく学ぶことの大切さを覚えます。


<結び>

 「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」(使徒17:30)

 悔い改めよと言われなければ神の前に罪を犯していたことに気づかず、天の国が近づいたと知らされなければきよめを求めることもできないのが私たち罪人であります。ところが悔い改めが説かれても耳を貸さない者たちは旧約の預言者たちの時代にはじまり洗礼者ヨハネや使徒たちという時代を経て、現代にいたるまでいかに多いことでしょう。
 私たちの救い主イエス・キリストは私たちがこの方を知るよりも前に私たちの身代わりとなってすべての罪を負って十字架にかかってくださいました。キリストを信じる信仰によって新しく生まれた者は主と同じ姿に造りかえていただきつつ、天の国が近づいたことを自ら信じキリストとともに世に対して証しをします。

 「イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」(マタイ4:17)


このブログの人気の投稿

マタイによる福音書27章32-56節「十字架への道」

ルカによる福音書24章44-53節「キリストの昇天」

マタイによる福音書20章20-28節「一人は右に、もう一人は左に」