マタイによる福音書18章21-35節「憐みは裁きに打ち勝つ」
2025年9月28日
牧師 武石晃正
4月から始まりました2025年度も今週でちょうど半分を主にお返しするところであります。2025年という年は日本の社会全体にとってもキリスト教会にとっても、ある側面において深い意味を持つ節目として認識されています。
いわゆる「2025年問題」と呼ばれる課題が社会の構造のうちに存在する一方で、多くの教会においても高齢化と少子化は会員の減少や担い手不足という状況の大きな一因となっております。このような時代背景の中で世代間の価値観のずれや過去の人間関係のしがらみなどを抱えつつも、「休ませてあげよう」(マタイ11:28)との主イエスに招きに対して教会という共同体は交わりの中で応えるものです。
「ひとつの聖なる公同の使徒的な教会」(ニカイア・コンスタンティノポリス信条)はキリストの体として互いに支えあい、聖書の言葉に照らされては聖霊によってきよめられます。集う者たちが各々に思い煩いを抱えつつも「聖徒の交わり、罪の赦し」を信じつつ、本日はマタイによる福音書より「憐みは裁きに打ち勝つ」と題して導きを求めましょう。
1.七の七十倍までも
「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った」(21)と福音書はそれまでの主イエスの教えを受けて弟子の問いを取り上げます。直前の箇所において主は弟子たちに羊飼いのたとえをもって「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14)と御心を示されました。
進み出たペトロが問うところは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21)ということです。旧約のヨブ記には「二度でも三度でも」(ヨブ33:29)と主の救いと忍耐が記されておりますから、居合わせた他の弟子たちも7回というペトロの申出を相当な寛容であると受け取ったことでしょう。
ところが弟子たちの思いをはるかに超えて主イエスの答えはなんと「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22)というのです。7の70倍なら490回、ルカによる福音書には「一日に七回あなたに対して罪を犯しても」(ルカ17:4)赦すように命じられておりますから連日だとしても2か月余り続くのです。
果たして聖書は文字通りの回数を私たちに求めているのでしょうか。「七回まで」との言葉の裏に許さなくてよい8回目を弟子たちが心の中に隠し持っていることを主イエスは見抜いておられました。
3回だろうと7回だろうと数を増やしたところで、弟子たちは許さなくてよいのは何回目なのかを主の口から聞き出したかったのです。結局は赦すつもりがないのなら7回どころか70倍した490回まででも同じことであるというのが主イエスの答えでありました。
「そこで、天の国は次のようにたとえられる」(23)と主はたとえをもって説かれます。たとえによる教えは原則として「天の国」すなわち「わたしの天の父」(35)のご性質が示されているものとして読み解く必要があります。
このたとえの結論は怒った主君が「家来を牢役人に引き渡した」(34)ことにあり、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさる」(35)ということです。したがってこの箇所で主は罪を犯した兄弟を何度でも赦しなさいと命じておられるのではなく、小見出しにあるように「仲間を赦さない家来」が主なる神の前で受ける報いあるいは裁きであります。
「引き渡した」(34)という語は裁きを行う者の手に身柄が渡されることでありますから、世の終わりに「天使たちが来て(中略)燃え盛る炉の中に投げ込む」(13:49-50)と先の箇所で言われていることに通じます。「借金をすっかり返済するまで」(34)と期限があるようにも読めますが、そもそも「一万タラントン借金している家来」(24)は「返済できなかった」(25)わけですから「永遠の火に投げ込まれる」(18:8)ことに等しいでしょう。
非常に厳しい扱いであるようにも思われますが、「どうか待ってくれ」(29)と赦しを請い求めている「これらの小さな者」(18:6,10)をつまずかせては軽んじた者を御父がこのように扱われるのです。実に主の兄弟ヤコブが「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(ヤコブ2:18)と記すところです。
2.キリストの贖いによる大いなる罪の赦し
たとえにおける「ある王」(23)また「主君」(25)と呼ばれる者が「天の国」すなわち「わたしの天の父」(35)を示していることはあきらかです。ではなぜ主イエスが「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22)と弟子たちに命じながらも家来への厳しい仕打ちをたとえの中で説かれたのでしょうか。
それは実に「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14)と一連の教えの中心として語られているところによるものです。福音書が記されるにあたって教会の中において父の御心ではないこと、つまり小さな者と呼ばれる存在の信仰が損なわれようとしていたこともありましょう。
冒頭でペトロが問いとしているのは「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら」(21)ということであり、これは15節において主が「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と弟子たちに与えた命題への応答です。したがって本日の箇所はあくまでも「兄弟」と呼ばれている者たち、つまり御子イエスの十字架で流された血によって贖われた教会の中で起こっている事柄が扱われています。
また「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(17)「あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18)と言われるような「教会の言うことも聞き入れない」者は「兄弟」に含まれていないと言えるでしょう。事の次第を見て非常に心を痛めた仲間たちが彼らの主君に起こったことすべてを告げたのは、二人または三人の証人の口によって確定されたことを教会へ申し出るように命じられていることに通じるところです(16-17)。
君主は家来が「どうか待ってください。きっと全部お返しします」(26)としきりに願ったので憐みをかけて彼を赦し、「その借金を帳消しにしてやった」(27)ことです。その金額1万タラントンは国家予算に匹敵し、現代の価値に換算すれば何兆円にも及びますから返済することは到底不可能な負債であることが分かります。
人間は神にかたどって創造されたにも関わらず、創造主に背いたことで神の名誉を疵付けてしまいました。それゆえに自らの死をもってしても償うことができない負債すなわち罪を生まれながらに抱えています。
罪に対する命の代価を返済することができない私たちを主なる神は深く憐れんでくださったので「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)のでえす。罪を犯したことも偽りもないキリストが十字架にかかり、信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためにご自分の命によって全世界の罪を償ういけにえとなられました(ヨハネ一2:2)。
つまり主イエスが説かれた7を70倍する赦しとはすべての罪の負債を帳消しにすることができる完全な贖いによるものです。私たちが神に対して負っている途方もない罪の負債が、私たちの能力や努力によらずただキリストを信じる信仰によって無条件の恵みとして赦されたこと君主のたとえが表しています。
他方で「百デナリオンの借金をしている仲間」(28)は確かに高額ではあるものの、待ってもらえさえすれば何とか返済可能な借金を指しています。すなわち教会の中において「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります」(ヨハネ一5:16)と扱われるべき類のものです。
「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33)とはあなたに罪を犯した兄弟を赦すための言葉ではないのです。事の次第を見て非常に心を痛めた仲間たち(31)への慰めであり、「これらの小さい者」をつまずかせてはキリストの体を傷つける者を主なる神は裁かれるのです。
この裁きの言葉は神の憐れみと矛盾するものではなく、「生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」(日本基督教団信仰告白)と告白されるように、救いの恵みを真に受け取らなかった者に対して神の義が表わされるのです。主なる神が7を70倍までも赦してくださるとして、私たちは本当の意味で神の赦しときよめを日々に受けているでしょうか。
私たちは自分の命をもってしても償うことができない罪という神に対する借金を抱えていましたが、独り子である神キリストがこれを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました(コロサイ2:14)。「七の七十倍までも赦しなさい」(22)と弟子たちに命じられた方は「背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」(ルカ11:46)どころか、罪も偽りもない方であるのに私たち罪人の代わりに十字架を背負ってくださったのです。
イエス・キリストが十字架の死によってあなたの罪をことごとく帳消しにしてくださったのですから、何よりもまずこの恵みをあなた自身がしっかりと受けましょう。あなたが「小さな者」であろうとも、その信仰をつまずかせたり損なったりする者を天の父は見逃すことも放っておくこともなさらないとの確かな約束がここに与えられています。
<結び>
「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(ヤコブ2:18)
キリストの十字架の贖いは、私たちが負う途方もない負債(一万タラントン)をすべて帳消しにするほどの神の絶対的かつ完全な恵みです。私たちは自分の努力や行いによってではなく、ただ信仰によってこの完全な赦しを無条件でいただきました。
この恵みを心から受け取った者はたとえ小さな額の負債であっても、その赦しを隣人へと流し出すよう切に願う者へと変えられていくのです。キリストが代価を払って買い取られた教会と私たちは、憐れみは裁きに打ち勝つという恵みのうちに生かされています。
「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」(マタイ18:27)