ルカによる福音書1章39-56節「幸いな者」
2025年12月21日
牧師 武石晃正
メリー・クリスマス! 主イエス・キリストのご降誕、おめでとうございます。私たちはこうして共に集まり、世界の教会と共に救い主イエス・キリストがお生まれになったことを祝い喜びの挨拶を交わします。
単に2000年前にどこかの偉人が生まれたというお祝いではなく、神が人としてお生まれになったことにより来たるべき神の国を指し示す希望の光が点火されたのがクリスマスなのです。本日はルカによる福音書を開き、「幸いな者」と題して救い主の降誕という恵みを大いに受け取りましょう。
1.「低き」にある者へ神の恵み
朗読の箇所であるルカによる福音書1章39節以下は世界で最初に救い主を迎えた二人の女性、マリアとエリサベトの物語です。彼女たちは王宮に住む高貴な女性たちではなく、名もない貧しい、しかし信仰によってきよめられた器でした。
まず48節にある「マリアの賛歌」(マグニフィカト)に注目しましょう。マリアは主なる神を賛美して、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1:48)と歌いました。
ここでマリアが自分自身を指して使っている「身分の低い」という言葉は52節でも用いられておりますが、これはただ経済的に貧しいとか社会的地位が低いという意味だけではないのです。また「はしため」という言葉が当時の社会では「女奴隷」を意味するように、マリアは主なる神の御前における「自分の低さ」「無力さ」を正直に認めて完全に従う存在であることを告白しています。
それに比べて私たちはどうでしょうか。現代の社会は「強さ」や「高さ」また「豊かさ」を求めては、自己実現や高学歴高所得などいわゆる「勝ち組」になることが良いことであると教えるでしょう。
しかし主なる神はその視線を全く別の方向に向けておられ、「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろ」(51-52)されます。「自分には力があるのだ」と誇るような高ぶる心を持ったままでは神の恵みを受けられないのです。
水が高い所から低い所へと流れるように、神の恵みは砕かれた魂に豊かに注がれます。マリアのように「低い」心で「主なる神よ、あなたなしでは私は塵にすぎません」と告白する者に主は目を留められます。
かつて私たちホーリネスの信仰の先達たちは、キリスト再臨の待望という信仰のゆえ第二次大戦中に激しい弾圧を受けました。教会は解散させられ牧師たちは投獄され、社会的に最も「低い」場所へと追いやられました。
けれども、まさにその「低さ」の極みである牢獄の中で天の栄光を見上げ、主イエスの臨在を深く鮮やかに体験したとの証しがあるのです。「身分の低いはしため」の座に落とされた者たちが、そこで「力ある方」(49)に出会いました。
クリスマスとは、神が天の御座という「いと高きところ」から飼い葉桶という低い所へと降りてこられた日です。もし私たちが自分の心の中にプライドや自己中心という「高い座」を設けているならば、主イエスを迎えることはできないでしょう。
幼子として生まれた救い主は飼い葉桶という低く卑しい器に宿られました。私たちは自分が低くされることを恥じことなく、むしろ低くされてこそ神の栄光を迎えるための特等席に着くことになるのです。
2.聖霊に満たされる恵み
次に、マリアがエリサベトを訪ねた時の出来事に目を向けましょう。マリアは天使からのお告げを聞くとじっとしていられずに「急いで」山里に向かいました(39)。
神の言葉を宿した者は必ず心と体が動かされます。そして「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った」(41)という不思議なことが起こりました。
注目すべきは「エリサベトは聖霊に満たされて」語ったということです。このようにクリスマスの出来事とは聖霊なる神が人間の内に激しく働きかけ、人間を新しく作り変える出来事の始まりなのです。
エリサベトもマリアも聖霊に満たされた時、自分自身の思いや常識あるいは不安や恐れを超えて神の言葉を語り、神を賛美する者へと変えられました。ここにもホーリネスが求める「聖化」(きよめ)の恵みの姿を見ることができましょう。
「聖化」におけるきよめとはマリアが「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と告白したように、自分の人生の主導権を完全に主なる神に明け渡すことです。何か修養などを積んで少しずつ立派な人間になるのではなく、心の中にある自我やわがままさという罪の根っこを聖霊によって取り除かれてキリストへ完全に明け渡すのです。
マリアが御子をその胎に宿したように、私たちも聖霊によって主イエスを心の内にお迎えします。主イエスの愛と謙遜そしてきよさが私たちの内に形作られること、これが「救い主を迎える」という信仰的体験の核心です。
あの日エリサベトが聖霊に満たされて叫んだように、私たちも聖霊に満たされたいと願いましょう。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」(黙示3:20)とあなたに語りかける主を心にお迎えする時、そこに個人的なクリスマスとして魂の新生と聖化が起こるのです。
3.再臨への希望
最後に、マリアの賛歌(マグニフィカト)が指し示している「未来」に目を向けましょう。聖霊に満たされたマリアは「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(51-53)と神の力強い御業を歌います。
この時まだ主イエスはお腹の中におられる小さな命に過ぎませんし、取り囲む世界ではローマ帝国の強力な支配のもとでヘロデ王の圧政があり、貧しい人々は搾取されては飢えていました。けれどもマリアは救いがすでに完成したかのように「権力ある者をその座から引き降ろし」「飢えた人を良い物で満たし」と高らかに歌えたのです。
事実はまだ目に見える形では起こっていなかったとしても、マリアはこれらのことを信仰の目ではっきりと見ていました。自分の胎に宿った救い主がやがて必ず全世界を支配し、すべての悪と悲しみを終わらせて神の正義を実現してくださる「真の王」であると。
未だ見ぬ神の恵みに対する希望は現代に生きる私たちにおける「再臨」への信仰そのものです。実にホーリネスの信仰は「四重の福音」のうちに再臨の王キリストに救いの完成という希望を抱いています。
初めのクリスマスで主イエスが「低い姿」で来られたのは、私たち罪人の罪を背負って十字架にかかられるためでした。主が十字架で流された血によって信じる者たちが罪の赦しを受け、神の子とされる道を開いていただいたのです。
三日目の復活と昇天によってイエス・キリストの福音がそこで終わったのではなく、主はもう一度この世に降りて来られます。今度は飼い葉桶の赤子としてではなく雲に乗って来られる栄光の王として、すべての涙をぬぐい、死を滅ぼすために来られるのです。
賛歌の中でマリアが歌う「逆転」はこの世の価値観が覆される時です。今は信仰のゆえに涙を流し正直者が馬鹿を見るような世の中であり、神に従って誠実に生きる者が低くされています。
再び世に来られる時に主は「身分の低い者を高く上げ」てくださいます。その一方で神を無視してはイエス・キリストの福音に耳を傾けず、自分自身の力と富を誇っている「思い上がる者」「権力ある者」「富める者」たちはその座を失うことになります。
イスラエルの民が暗闇の中でメシアの到来を待ち望んだように、現代の私たちも主の再臨を待ち望んでいます。世界を見渡せば戦争や疫病そして災害が絶えず起こり、「主なる神、どこにおられるのですか。いつまで待てばよいのですか」と叫びたくなるような現実があります。
かたや主なる神はアブラハムに約束されたことを2000年の時を経て、ダビデの子イエスにおいて成就されました(55)。クリスマスの出来事は神が約束を忘れることはなく、再臨の王キリストは必ず来られることを私たちに確証します。
だからこそ、クリスマスにおいて降誕を祝いつつも主イエスが約束された「わたしはすぐに来る」という再臨の約束をしっかりと握るのです。私たちはやみくもに待つのではなく、マリアのように「その憐れみは代々に限りなく」という確信をもって待つのです。
<結び>
「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」(ルカ1:48-49)
「いと高きところには栄光、神にあれ」との賛美を受ける神が低い地上に、しかも飼い葉桶の中に降りてきてくださいました。主なる神が聖霊によって低くなられたので、私たちはこの世の力や豊かさではなく主の前にひざまずく低さにおいて祝福を受けるのです。
今日ここに「お言葉どおり、この身に成りますように」とマリアのように、自分の人生の全領域を主なる神に明け渡したいと願う方はおられるでしょうか。聖霊によりマリアに宿られて人としてお生まれになった独り子である神キリストが魂の中に生まれてくださるとき、幸いな者としてあなたは本当のクリスマスの喜びに満たされます。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)