マタイによる福音書2章1-12節「諸国の民の栄光と誉れ」

 2025年12月28日
牧師 武石晃正

 

 先週のクリスマス礼拝そしてイブ集いのキャンドルサービスにおいて、私たちは「闇の中に輝く光」を見ました。飼い葉桶に寝かされた幼子イエスという小さな命の中に、全宇宙を造られた神の愛がぎゅっと詰め込まれていることを覚えては心が震える思いです。
 クリスマスの喜びはたったその日だけに終わるのではなく、教会暦の降誕節と呼ばれる期間において祝われます。降誕節の期間は一年のうち数週間と限られておりますが、救い主が与えられたことの感謝と喜びは尽きることがないのです。

 ベツレヘムに灯った光がどのようにして全世界へと広がり、そして歴史の最後にどのような輝きとなって実を結ぶのでしょうか。本日は降誕節第1主日にあたりマタイによる福音書を開き、「諸国の民の栄光と誉れ」と題して主なる神の壮大なご計画に思いを馳せましょう。


(PDF版はこちら)

1.異邦人によるまことの礼拝

 マタイによる福音書2章には「占星術の学者たち」(1)という不思議な旅人たちの姿が描かれています。「東の方」とはどこでしょうか、それは聖書の地理的背景において、かつての大国バビロニアあるいはペルシャ(現在のイラクやイラン)のあたりであったと考えられます。
 彼らは「占星術の学者(マゴイ)」と呼ばれていますが、これは怪しげな魔法使いではなく天体の動きを観測たり歴史を研究したりすることにより神の意思を読み解こうとする当時の最高レベルの知識人たちでした。ではなぜ彼らのような異教の学者たちが「ユダヤ人の王」(2)の誕生を知り、わざわざ礼拝に来ようとしたのでしょうか。

 そこには歴史を通した種蒔きともいえる主なる神の遠大な摂理があり、かつてイスラエルの民は神への背きのゆえに国を失ってはバビロンへ捕囚として連れ去られました。しかし神はその悲劇さえも用いられ、ダニエルやエステルといった信仰者たちが異教の王宮のただ中でまことの神の力を証しし、誠実に仕えたのです。
 他にも多くの信仰に篤いユダヤの人々の記録と彼らが信じている聖書の言葉が残されたことでしょう。ですから数百年の時を経て主なる神の預言者たちの言葉がこの学者たちの目に留まったとしても不思議のないことです。

 「ひとつの星がヤコブから進み出る」(民数24:17)という古い預言がありました。ダビデ王の子ソロモンの偉業と繁栄はインドやアフリカの地域まで広まりましたから、「東方でその方の星を見た」(2)ときに世界の王となる「ユダヤ人の王」が生まれたのだと学者たちが確信して旅に出たのもうなずけます。
 遠く東の国から道なき道を星だけを頼りに進むのですから、決して楽な旅ではなかったでしょう。他方で日本というエルサレムから見れば「地の果て」のような極東の国に住まう私たちもまた、霊的な意味で「東の方」から来た旅人と言えるでしょう。

 聖書の神を知らずに生きてきたとしても誰かが伝えてくれた福音の言葉があり、それをふと心に留めたとき人生の闇の中で確かな希望となりました。そのような「星」に導かれて、私たちは今イエス・キリストというお方に出会っています。
 学者たちの旅は、まさに私たち一人ひとりの信仰の旅路そのものです。彼らが「拝みに来たのです」(2)と言ったとき、真の王に出会いひれ伏して拝むことこそ魂の渇きを癒す唯一の目的であることが証しされました。

 と申しますのも東方の学者たちがエルサレムに到着した時点で「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3)とあるように、そこで待っていたのは歓迎ではなかったからです。当時のユダヤを支配していたヘロデ大王は政治的な手腕に長けた強力な王でしたが、同時に疑い深く残酷な支配者でもありました。
 彼は自分の王座を脅かす者の存在を極度に恐れておりましたので、「ユダヤ人の王」の誕生という福音は良い知らせではなく自分の支配を揺るがす脅威でありました。そこでヘロデは祭司長や律法学者たちを集めて、メシアがどこに生まれるかを問いただしました(4)。

 祭司長たちは「ユダヤのベツレヘムです」(5)とミカ書の預言を引用して答えたものの、誰もベツレヘムに行こうとはしませんでした。聖書の知識を持っていましたが彼らの足は「ユダヤ人の王」へと向かうことはなかったのです。
 他方で異邦人である学者たちは聖書の知識こそ乏しかったとしても、聞いた言葉と神からの導きに対して純粋に応えました。彼らは王宮を出ると再び星に導かれ、ベツレヘムの小さな家へとたどり着いたのです(9)。

 とうとう「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10)と、長く厳しい彼らの旅は報われました。そしてその家に入って「幼子は母マリアと共におられた」のを見たとき、「彼らはひれ伏して幼子を拝み」(11)ました。
 この「ひれ伏して拝む」と訳される元の言葉の意味は、地面に平伏して支配者の足元に接吻するような最上級の服従の姿勢を表します。異国の高貴な学者であり富も地位もあった東方の学者たちが無力な幼子の前に自分のプライドも地位も知識もすべてを下ろしたように、すべてを投げ打って「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と告白することこそ救い主キリストへのまことの礼拝です。

 宝の箱を開けた彼らは「黄金、乳香、没薬」(11)という彼らの持てる最良のものを貢として献げました。これらは後の時代に王としての黄金、神としての乳香、そしてやがて十字架にかかられる救い主としての没薬と解釈されることになりますが、いずれにしても学者たちは聖霊の導きによってこの幼子の正体にふさわしい最高の栄誉を帰したのです。


2.再臨によって完成されるまことの礼拝

 降誕記事としてマタイによる福音書に記されているところでは数人の学者が幼子を礼拝しましたが、ヨハネの黙示録ではその礼拝の輪が全世界的な規模に拡大しています。ここで私たちの視点をマタイの記述からヨハネの黙示録21章へと大きく広げてみましょう。
 ヨハネは「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」(22)と完成された神の国の幻を記しています。神ご自身が都全体にそして人々の間に住まわれるので建物としての神殿は必要なく、私たちの生活と交わりのすべてが神への直接的な礼拝となる日が来ます。

 続いて「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない」(23)と書かれています。東方の学者たちは星を頼りに闇の中を旅しましたが、キリストの再臨においては「神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだから」被造物の光はもはや必要ないのです。
 主イエスご自身が永遠の光として輝き、すべての闇を消し去ってくださいます。そしてその時には私たちもまた朽ちることのない新しい姿に変えられるのです。

 かつては神を知らず偶像に仕えあるいは神に敵対していたような国々の人々でさえ、小羊の血によって贖われ聖められ、神の都へと招き入れられています。その様子が「諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。」(24)「人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る」(26)と綴られています。
 諸国の民も王たちも「栄光と誉れ」を携えてくるのです。「黄金、乳香、没薬」を献げた学者たちはこの終わりの日における「諸国の栄光」の先駆けとしての初穂でありました。

 その一方で黙示録は私たちに「しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない」(27)と厳粛な警告も与えています。罪の汚れや偽り、憎しみあるいは自己中心的な野心は一切持ち込むことができませんから、ヘロデのような自分の栄光を求める心を持ったままでは神の聖なる都の門をくぐることはできないのです。
 夢で神のお告げを受けた東方の学者たちがヘロデのところへ帰らず「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(12)ことを思い返しましょう。幼子イエスを真の王として礼拝した彼らは以前と同じ道を歩むことはできず、ヘロデをはじめ世俗的な権力におもねる道ではなく神に示された「別の道」つまり聖別された新しい道を歩み始めたのです。

 イエス・キリストを信じることで救われた者は「新生」の恵みを受けた時から「聖化」に生きる者と変えられ、日々に古き自分つまり肉の欲や世の汚れから離れる道を歩むように召されています。再臨の王キリストお迎えするその日まで、私たちはキリストの血によって日々きよめられ聖霊によって内側から造り変えられ続ける必要があります。
 信仰の歩みであっても地上の生涯においては私たちの身体と心には病など多くの苦しみがありますが、それらが完全に癒やされる日が来ます。「その木の葉は、諸国の民の病を治す」(黙示22:2)という終わりの日の素晴らしい癒しの約束を信じつつ、やがて来る完全な癒しの「前味」として神癒の恵みを信じて祈ります。

 キリストの再臨の日にはすべての涙はぬぐわれ、死も悲しみも叫びも苦痛もなくなります。その日には諸国の民が互いに傷つけ合うことなく共に癒やされ手を取り合い、キリストの平和のうちにまことの礼拝をささげるのです。


<結び>

 「諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。」(黙示21:24-26)

 福音書に記された東方の学者たちは異邦人でありながら、星に導かれて救い主に出会い、「黄金、乳香、没薬」という尊い捧げものをしました。これは、私たち異邦人が神の救いに招かれることの「初穂」、最初の実りでした。
 飼い葉桶に寝かされた御子イエス・キリストから始まった救いの計画はそこで終わることなく、やがて主イエスが再び来られる「再臨」の時へと続きます。来たるべきその日には数人の学者ではなく諸国の民また地上の王たちが、こぞって「栄光と誉れ」を携えて神の都に入ってくるのです。

 私たちは主イエス・キリストの十字架の血潮によって救われた者として神と共に歩みます。「信仰の実」「愛の業」を生み出し、諸国の民の栄光と誉れという贈り物を携えて恵みの座へと近づきましょう。

 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:11)


(引用「聖書 新共同訳」©日本聖書協会)


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