マルコによる福音書1章14-20節「目からうろこ」
2026年1月18日
牧師 武石晃正
先日1月12日には米子教会を会場に今年も山陰新年聖会が行われました。聖化の歩みは日々の生活と週ごとの礼拝において継続的暫時的に進むと同時に、年に一度二度と聖会において特別に御言葉に照らされて大きな転機を迎えます。
聖会では日常の生活から切り離されて主の御言葉だけに思いを向け、一同が心を一つにして罪の赦しときよめを求めます。御前に招かれては今まで取り扱われてこなかった心の奥底にある罪やけがれに気づかされ、私たちは目からうろこが落ちたように瞬時的な聖化を経験します。
教会暦では今週は降誕節にあり、降誕節は闇の中に光として来られた主イエス・キリストが公の生涯において神の栄光をはっきりと現されたことを覚える期間です。本日はマルコによる福音書を中心に「目からうろこ」と題し、主イエスによって招かれた最初の弟子たちと使徒パウロの姿から私たちの霊の目がどのように開かれていくのかを探ってまいりましょう。
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1.漁師たちの「目からうろこ」
マルコによる福音書は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」との主イエスの宣教の第一声を記すことで事の始まりを示します(15)。「時は満ちた」とは、人間の側の準備が整ったということではなく、主なる神の救いの計画において決定的な時が来たということです。
どのような時であったのか、「律法と預言者は、ヨハネの時までである」(ルカ16:16)とまで言われた偉大な洗礼者ヨハネが捕らえられた直後であることが14節から分かります。人間の側からすると指導者が捕らえられ暗闇が支配したかのような状況でありますが、主なる神の「時」が満ちて新しい光が輝き始めたのです。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき」(16)と場面が変わり、主はシモンとアンデレが網を打っているのを御覧になりました。そして「わたしについて来なさい」(17)と声をかけられた二人は「すぐに」網を捨てて従い(18)、またヤコブとヨハネも同様に父と雇い人を残して従いました(20)。
福音書のこの部分だけを読むならば、突然に声をかけられた4人の漁師たちが魔法にかかったかのように初対面の主イエスに従ったと考えがちではないでしょうか。しかし聖書全体を丁寧に読み解くと、もう少し違った景色が見えてきます。
ヨハネによる福音書を開きますと、元々アンデレたちが洗礼者ヨハネの弟子であったことが記されており、ヨルダン川で洗礼者ヨハネの指導を受けていた中でナザレのイエスに出会っていたことが分かります(ヨハネ1:40以下)。つまり彼らにとって主イエスは初対面の通りすがりの人ではなく、もともと同じ師のもとにいた兄弟子のような存在であり、ナザレ出身の大工として知っていた人物だったということになります。
当時の彼らにとってナザレのイエスは「尊敬すべき兄弟子」あるいは「ヨハネ先生が評価していた人物」という程度だったことでしょう。しかし洗礼者ヨハネが捕らえられてその一門がいわば解散状態となり、彼らも落胆しながら故郷のガリラヤで漁師に戻っていたことです。
ところが彼らが失意のうちにあったであろうその時、あのナザレのイエスが彼らのもとへ現れました。しかも何とあのヨハネ以上の権威をもって「時は満ちた、神の国は近づいた」と宣言されたのです。
かつてヨハネは主イエスを指して「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(1:7)と言いました。漁師たちは自分たちが単なるナザレ人だと思っていたこの方こそヨハネが指し示した救い主メシアであり、自分たちが従うべきまことの主であると気づいたのです。
今まで単に「兄弟子」である「大工の息子」としてナザレのイエスを捉えていたシモンたちにとって、その本当の姿が神の子として鮮明に見えた瞬間でした。これこそ彼らにとってまさに「目からうろこ」が落ちる体験でありました。
だからこそ、4人の漁師たちは生活の糧である網を「すぐに」捨てたのです。ただ生活を投げ出したのではなく、彼らは大いなる真理であり大いなる命を見つけました。
2.パウロの「目からうろこ」
聖書にはもう一人、劇的な形で目からうろこが落ちた人物がいます。それが使徒言行録9章に登場するサウロ、後のパウロです。
サウロと呼ばれていた頃の彼は、神への熱心さに燃えるエリートでした。彼は十字架という極刑で死んだナザレ人イエスを救い主とあがめる集団は神を冒涜しており、律法に反逆する者たちだと信じて疑いませんでした。
ですから「ナザレ人の分派」と呼ばれる者たちを捕らえて根絶やしにすることこそ、神への忠誠であり自分の天命だとサウロは信じていたのです。彼の目は「神の義」を見つめていたはずでしたが、実はそれは自分中心の歪んだ正義でありました。
そのサウロがダマスコという町へ向かう途中で天からの光に打たれ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞きました(使徒9:3-4)。「主よ、あなたはどなたですか」と怯えるサウロに「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と主はお答えになりました(使徒9:4-5)
この瞬間、彼が信じていた世界は崩れ去りました。神への奉仕だと思ってしていたことが、実は神ご自身への迫害だったのです。
サウロの目は見えなくなり、彼は三日間、暗闇の中で過ごしました(9)。それは彼の古い自分、自信満々だった自分が死ぬ時でした。
そして主が遣わされたアナニアがサウロのもとを訪れて祈った時、「たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった」(使徒9:18)というのです。実際に何かの破片のようなものが落ちたのだとしても、本当に落ちたうろこはそれだけではありませんでした。
教会を迫害するほどまで彼を覆っていた偏見や独善、自分の正しさという厚いうろこが落ちたのです。目からうろこが落ちたサウロは自分が迫害していたイエスこそがまことの主であると知り、救い主メシアであることをはっきりと信じました。
3.私たちにある「丸太」といううろこ
漁師のシモンたちと迫害者サウロでは立場は全く違いますが、共通していることがあります。彼らはいずれも「自分の思い込み」によって主イエスを見ていたということです。
シモンたちは「ただの兄弟子」として、サウロは「神への反逆者」としてナザレのイエスを見ていました。しかし主イエスのほうから彼らに近づいて招いてくださったとき、その思い込みのうろこが剥がれ落ちて真実の姿を見えるようにしていただいたのです。
ここから、私たちにとっても大切な3つのことが分かります。第一に、キリストの弟子とされるのは、主の側からの招きによるということです。
漁師たちが主イエスを見つけたのではなく、主イエスが彼らを御覧になって「わたしについて来なさい」と招かれたのでした。サウロが回心したのも彼が修行したからではなく、主が一方的に道端で天から声をかけられたからです。
第二に、使徒たちでさえそうだったように、私たちはみな最初から主イエスを正しく理解できていないということです。いつの間にか「イエス様ならこうしてくれるはずだ」「信仰とはこういうものだ」という自分の枠組みで主を小さく見積もってしまうものです。
罪やけがれが全くないという人はいないのですから、教会に長く通っているから万全だということにはならないでしょう。だからこそ私たちは日々の歩みと週ごとの礼拝、そして聖会で御言葉の取り扱いを受けることを通して、何度でも「目からうろこ」を落としていただく必要があるのです。
第三に、私たちの視界を塞いでいるのは実は自分自身であるということです。マタイによる福音書には「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイ7:5)とイエスの言葉が書かれています。
勿論ここで言われている「丸太」とは物理的な木材ではなく、いわば自分の正しさや偏見、自己中心的な思いをたとえているものです。サウロにとっての丸太は律法による自分の義であり、シモンたちにとっての丸太は日々の生活や網への執着だったことでしょう。
目の中にうろこどころ丸太があるのに、私たちは他人の目のおが屑つまり小さな欠点ばかりを気にして裁いてしまいがちです。この丸太がある限り私たちは主イエスの恵みを正しく受け取ることができず、また兄弟姉妹の愛も正しく知ることはできないのです。
「目からうろこ」が落ちるとは自分の力で視力を回復しようとすることではなく、光であられる主イエスのほうから近づいて御言葉をかけてくださることに始まります。主の権威ある言葉に触れられるとき私たちの心を塞いでいる丸太が砕かれて、古い性質や自分の思いがうろことなって落ちるのです。
<結び>
「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。」(使徒9:18-19)
弟子たちは主との出会いを通じ、それまでの思い込みという「うろこ」を落とされ、イエスこそ真のメシアであると悟りました。迫害者パウロも主の光に打たれて独善のうろこが落ち、伝道者へと変えられました。
自分の正しさや執着という「丸太」によって私たちも主の真実を見誤ることがありますが、主からの招きを受けるとき聖霊と御言葉によって心の目がきよめられます。私たちは主なる神の招きによってキリストの十字架による救いを受けたのですから、目からうろこを落としていただいて主イエスの御跡をまっすぐに従います。
「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1:14-15)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)