マルコによる福音書1章21-28節「権威ある新しい教え」
2026年1月25日
牧師 武石晃正
降誕節第5主日の礼拝を迎えました。暦の上では大寒を過ぎ一年で最も寒さの厳しい時期にありますが、雪が積もった土の下では春の命が静かに出番を待っていることでしょう。
信仰者の歩みもまた寒さのような厳しい試練の中にありながらも、主イエス・キリストの御顔の光に照らされて内側から新しくされていく恵みの内にあります。本日はマルコによる福音書を中心に「権威ある新しい教え」と題し、イエス・キリストによる救いの確かさをしっかりと掴んでまいりましょう。
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1.安息日と「主の日」
朗読の箇所は「一行はカファルナウムに着いた」(21)と切り出されており、主イエスが会堂に入って教えられたのは「安息日」のことでありました。この日は、シモンとアンデレたちが網の手入れをしていた日から、幾日か後のことになります。
モーセの律法において安息日は「聖なる集会の日」と定められているように(レビ23:3)、主イエスもまたユダヤ人の慣習に従って安息日には会堂へと足を運ばれました。会堂では祈りと律法の朗読による礼拝が行われ、主の弟子たちもまた安息日を守っておりました。
ここで少し立ち止まって考えてみたいこととして、キリストの弟子とされた私たちはこの「安息日」をどのように捉えているでしょうか。旧約の律法によれば安息日は労働をしてもよい6日間に続く「7日目(土曜日)」であると定義されておりますが、いま私たちが礼拝をささげているのは日曜日すなわち「週の初めの日」なのです。
なぜ私たちは7日目ではなく初めの日に集まるのか、それは主イエスが復活されたのが「週の初めの日」であったからです(マタイ28:1、マルコ16:2)。闇を打ち破り、死に勝利されたその日を記念して、初代教会は週の初めの日に集まるようになりました(使徒20:7)。
このように私たちが日曜日に礼拝を守るのは律法の規定に縛られているからもなければ「安息日を守らなければ罰が当たる」といった恐れからでもないのです。私たちは復活の主イエス・キリストの弟子として恵みへの応答としてここに集っているからです。
そこで問われることは、あなたにとって救い主キリストは会いに行っても行かなくてもどちらでもよい神なのかということです。命を救ってくださった方であるのに、週の1日さえもささげることが惜しい程度の救い主なのでしょうか。
あるいはキリストとはあなたにとって自分の都合や気分が悪ければ御前に出なくてもよく、自分の好きにしてよいような程度の存在なのかと問われるところであります。もしイエス・キリストがあなたにとってその程度の存在であるならば、どちらでもいいような神があなたの魂を死と滅びの中から本当に救うことができると言えるでしょうか。
聖書のある箇所において主イエスは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイ5:20)と言われました。私たちの守る「主の日」は律法学者たちのような形式的な義としてではなく、それにまさる神への愛と感謝の義として守られるものです。
ただし主から与えられた特別な使命、あるいは病その他やむを得ない事情によって礼拝の場に来られないこともあるわけです。これについて「安息日に息子や牛が井戸に落ちたら引き上げない者がいるか」(ルカ14:5)と主が愛の業を優先されたことを覚えます。
しかし、私たちの心はどうでしょうか。主の召しに従って遣わされている兄姉、病の床にある兄姉を覚えて執り成すためにも、私たちは心を一つにして固く結び合わされる教会として、主の日毎に礼拝を守る(教憲第8条)のです。
2.汚れた霊に取りつかれた男
本文に戻りまして、主イエスが会堂に入って教えておられたとき、そこにいた人々は「その教えに非常に驚いた」(22)と記されています。なぜなら主が「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」(22)でした。
当時の律法学者たちの教え方は過去の偉大なラビ(先生)たちの言葉を引用するのが常でした。「ラビ誰某はこう言った」「伝承によればこうである」というものです。
彼らは律法の専門家でありましたが、その言葉は神の言葉そのものではなく人間の解釈の集積に過ぎないものでした。それに対し、主イエスは聖書の言葉からまっすぐに神の権威そのものとして説き明かされたのです。
一方、その会堂の中に「汚れた霊に取りつかれた男」(23)がおりました。彼は突然に「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24)と叫び出しました。
「汚れた霊」とは一体何であるか、おどろおどろしいオカルト的な印象を抱かれる方もおられるでしょうか。「霊」と訳されている言葉はもともと「風」や「息」を意味するものですので、東洋的な感覚で言えば病気の「気」と表されるものに近いところでしょう。
また「汚れた」というのは単に体が不潔であるという意味ではなく、宗教的な意味での「けがれ」や冒涜を意味する語です。つまり「汚れた霊に取りつかれた」とは「主なる神との正しい関係におかれていない状態」を指しているのです。
恐ろしいことに、この男は会堂の中におりました。ユダヤの掟は厳しいものですから、彼が普段から安息日を守って礼拝に出席し、外見上は敬虔な信仰者として生活いなければ会堂に入ることはできなかったはずです。
見た目の上では信仰深そうであり、言動においても普段は問題がなかったのです。しかし、彼の内側には「汚れた霊」すなわち「神の権威を侮るもの」が潜んでおりました。
「ナザレのイエスは神の聖者だ」という言い当てることができましたので、汚れた霊でさえ知識の上では神学的に正しい見地を持っているのです。しかし知識は信仰とは別のものですから、「かまわないでくれ」との叫びが神との関係を拒絶する罪の本質として表れました。
いくら知識として聖書や掟に詳しくとも、その人の内側が主なる神との正しい関係性すなわち「交わり」に結びついていなければ「汚れた霊」に付け入られる隙が生じます。礼拝の場に身を置いていながら心の中で神の主権を拒絶すること、これこそが「汚れ」の正体であると言えるでしょう。
実に私たちもまた自分の内側を点検する必要がありますから、公の礼拝や聖会において御言葉と聖霊によって心の奥底まで取り扱いを受けるのです。礼拝の席に座りながら心の中で「主よ、私の生活のこの部分には干渉しないでください」「かまわないでくれ」と叫んでいる領域があなたの内側にはないでしょうか。
3.権威ある新しい教え
この男の叫びに対して、主イエスはどうされたでしょうか。「この人は病気だから気の毒だ」と人間的に同情して庇うこともできたでしょうし、「そんなきつい言い方はしないほうがよい」と彼をなだめることもできたでしょう。
ところが主はただ一言「黙れ。この人から出て行け」(25)とお叱りになりました。神である主は「汚れた霊」すなわち神を侮る者の証言を必要とされることはないのです。
たとえそれが「神の聖者だ」という正しい言葉であっても、神に敵対する霊から出る言葉を主は拒まれました。そして主の教えの言葉には事態を根本から変える力、すなわち「権威」があったのです。
人々は「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ」(27)と驚きました。それは汚れた霊が出て行ったという現象に対するものではなく、「汚れた霊」の正体を露わにしたイエスの「権威ある教え」そのものへの驚きでした。
ガリラヤ湖畔のカファルナウムで発せられた主の教えは、今もなお聖霊によって私たちの心へと響いています。私たちはイエス・キリストの福音をただの良い教えとして知識だけにとどめるのでしょうか、それとも心から受け止めてこの権威に従うのでしょうか。
ある箇所で「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ12:30)と主が説かれています。知情意(知性、感情、意志)に加えて行動が伴うところに神への全き愛が実るのです。
十字架の贖いによって罪が許されたとはいえ私たちは罪人でありますから、当然ながら完璧とはなりえないことです。けれども知識だけでなく心も体もすべてを救い主キリストへ差し出すことにより、私たちは信仰の実りとして魂の救いを受けています(ペトロ一1:9)。
キリストの「権威ある新しい教え」は、私たちを縛る過去の罪や世の常識、死の恐れから私たちを解放します。主イエスが権威をもって御言葉を命じておられるのですから、私たちは主の日ごとの礼拝において「権威ある新しい教え」を受けて感謝と喜びの歩みを進めます。
<結び>
「人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』」(マルコ1:27)
安息日に会堂で教えた主イエスは神の権威を示されました。私たちが「主の日」に礼拝を守るのは、復活の主への愛と感謝の応答です。
カファルナウムの会堂にいた汚れた霊に取りつかれた男は知識では主を認めながらも「かまわないでくれ」と神との関係を拒絶しました。主が叱咤すると、汚れた霊はこの男をから出ていきました。
知識が信仰と結びつかず、主の主権を拒む領域が私たちの内にもないでしょうか。信仰によって神の力に守られている私たちは罪や恐れから解放される喜びの歩みへと踏み出すために、「権威ある新しい教え」に従ってキリストの前にすべてを明け渡しましょう。
「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」(ペトロ一1:5)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)