マルコによる福音書1章9-11節「神の証し」

2026年1月11日
牧師 武石晃正


 1909年を創立とする米子教会は今年で117周年を数えます。昨年末には編集から校正までのすべての行程が完了し、念願かなって創立百十周年記念誌の印刷が行われました。
 遅れること7年、長年の祈りと労苦が実りました。本日の主日礼拝において創立百十周年記念誌の奉献式を行うことができるのは、ただ主なる神の深い憐みによるものです。

 記念誌には歴代の牧師たちと信仰を守り抜いてこられた信徒の方々の名前や写真が並んでおり、すでに天に召された懐かしい方々を覚えては「ああ、あの先生の説教は力強かった」「あの方の祈りにどれほど励まされたか」と心が熱くなることです。それは尊い「人の証し」であり、信仰の先輩たちの証しがあったからこそ今日の私たちがあります。
 とはいえ人の力や人の証しがいかに尊くとも時とともに移ろいゆくものであり、教会を教会たらしめ私たちをキリスト者として生かし続けてきた唯一の土台は「神の証し」だけなのです。本日はマルコによる福音書を開きつつ「神の証し」と題して恵みの座へと近づきましょう。

(PDF版はこちら)


1.裂かれた天と神の声

 まず、マルコによる福音書1章に目を留めましょう。ここには、主イエス・キリストの公生涯の幕開け、ヨルダン川での洗礼の場面が記されています。
 さらりと読めますが「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(9)との一行には、神の驚くべきへりくだりが隠されています。主イエスは王宮のあるエルサレムから来られたのではなく、当時「何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と揶揄(やゆ)されたガリラヤのナザレから来られたのです。

 ヨルダン川には自分の罪を悔い改め、神の赦しを求める多くの人々が集まっていました。洗礼者ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(10)わけですが、罪のない神の子には罪人のための洗礼を受ける必要などあったのでしょうか。
 それは、主イエスが私たち罪人と同じ立場に立たれるためでした。主は高みから見下ろすのではなく、泥にまみれるように罪に苦しんでは神の救いを待ち望む私たちと同じ列に肩を並べて立ってくださったのです。

 フィリピの信徒への手紙において主は「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」「十字架の死に至るまで従順でした」と証しされています(フィリピ2:7-8)。この洗礼の姿こそ、主が私たち罪人と完全に連帯してくださった「神の愛の証し」でした。
 かたや主イエスが水の中から上がられたその時、「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」(10)と劇的なことが起こります。天におられる主なる神と地に住む人間を隔てていた厚い壁がバリバリと音を立てるように引き裂かれ、神の霊がどっと押し寄せてきた様子です。

 「天が裂けて」という表現は、やがて主イエスが十字架で息を引き取られた時に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(15:26)ことへとつながっていきます。主イエスの洗礼において天が裂け、十字架において神殿の垂れ幕が裂けたことにより、もはや主なる神と私たちを隔てるものは取り除かれたのです。
 裂けた天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11)という父なる神の声が響きました。これこそが、最強の「神の証し」です。

 悪魔が荒れ野で「もし神の子なら」と誘惑した時も、人々が「悪霊に取り憑かれている」と罵った時も、そして十字架の上で「神の子なら降りてこい」と嘲られた時も、主イエスを支え続けたのはこの父なる神の確かな声でした。誰が見ていようといまいと世間がどう評価しようと、父なる神ご自身が太鼓判を押されたこの証しによって主イエスは救いの御業を成し遂げられたのです。


2.水と血と霊の証し

 さて、この「神の証し」は2000年前のヨルダン川だけの出来事ではなく、キリストの弟子たちへと受け継がれます。ヨハネの手紙一5章は、この証しが現代に至る教会においてどのように私たちに届いているかを語ります。
 手紙には「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです」(6)とキリストについて述べられています。ここにある「水」と「血」とは何を意味しているのでしょうか、第一にこれは主イエスの生涯を表しています。

 「水」とはヨルダン川での洗礼による公生涯の始まりであり、「血」とはゴルゴタの十字架での死による救いの完成を指しています。主イエスは最初から最後まで神の子であり救い主であったばかりか、汗を流し涙を流し、そして血を流して私たちの痛みを背負ってくださったのです。
 第二にこの「水と血」は教会に与えられた恵みの手段、すなわち「洗礼」と「聖餐」を指し示しています。日本基督教団信仰告白が教会について「福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ」と告白しているところです。

 「水」は洗礼であり、私たちが洗礼を受けることでキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされます。新生の恵みにおいて私たちは罪をきよめられて神の子とされます。
 「血」は聖餐であり、私たちがパンとともに杯を受けるときキリストの十字架の血による罪の赦しを味わいます。そして主が再び来られる時まで、その死を告げ知らせるのです。

 キリストが十字架上で流された「血」は私たちの過去のすべての罪を赦す贖いの力であり、「水」は私たちの内側にある古い性質をきよめ、聖霊によって新しく造り変える聖化の力です。イエス・キリストは私たちを罪の刑罰から救うだけでなく、罪の力からもきよめてくださる全き救い主です。
 そしてこの歴史的な救いの事実である「水と血」が今もなお、私にとっても真実であると証言してくださるのが「霊」、すなわち聖霊なる神です。ヨハネの手紙には「証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています」(7-8)と記されています。

 聖書という書物に書かれた文字あるいは牧師を通して語られる説教が今この場にいる私の心を震わせ、「アーメン、主よ、私は信じます」と告白させるのは聖霊によるのです。聖書においても説教においてもこれらが人間の言葉による「説得」であってはならず、聖霊が「水」という洗礼の事実と「血」という十字架の事実を用いて私たちの心に語りかけてくださることこそが「神の証し」であります。


3.人の証しにまさる神の証し

 ヨハネの手紙一5章9節の御言葉は、私たちに大きな慰めと確信を与えます。そこには「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています」と書かれています(ヨハネ5:9)。
 私たちは日常生活において、たとえば医者の診断や専門家の意見、友人の評判といった「人の証し」に頼って生きております。これらは大切ではありますが、不完全なものです。

 人の評価は変わりやすく、記憶は薄れ、時には間違いも起こります。冒頭でお話しした記念誌に記された教会の歴史も「人の証し」という尊い記録ですが、それ自体が私たちを救うわけではないのです。
 あるいはどれほど偉大な牧師の説教だったとしても、それが人間の言葉である限りは魂を新生させる力はないでしょう。しかし「神の証し」は人の証しとは全く異なり、状況によって変わることがないのです。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)という神の声は、永遠に変わることのない「神の証し」です。これから洗礼を受けようと準備しておられる方もあるいは信仰生活の中で自信を失いかけている方も、自分の感情や信仰の熱心さといった「人の証し」に頼ることを手放しましょう。
 ときに「今日は調子が良いから主なる神に愛されている」とか「最近お祈りできていないから見捨てられたかもしれない」とか日々の生活で感じる人はおられるでしょうか。もし自分の調子の良し悪しで神の御思いを測ろうとすることがあればそれは人間の感覚によるものであり、岩の上ではなく揺れ動く証しの上に立とうとすることになります。

 神の証しは客観的な事実としてあなたの外側にあるものです。十字架の上で流された血、洗礼において注がれた水、そして「あなたはわたしのもの」と証印を押してくださる聖霊による証しです。
 この三つの証しが一致してあなたの罪は赦されたこと、そしてあなたが神の子であり神があなたと共におられることを確証します。洗礼を受けた時に天が裂けて神の霊があなたに降り、あなたは神の家族とされたのです。

 これらが誰にも覆すことのできない事実であることを聖餐に与るときに確かな神の恵みとして味わいます。私たちは「人の証し」を頼りとすることなく、聖霊と水と血による「神の証し」に聞き従います。


<結び> 

 「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。」(ヨハネ一5:9) 

 主イエスがヨルダン川で受けられた洗礼は、神の子が罪人と同じ列に立つ徹底したへりくだりの姿でした。天が裂けた事実は、十字架の贖いによって神と人を隔てる壁が取り払われたことを示しています。
 「水と血と霊」によって「神の証し」が今も教会における私たちへと届けられています。水は洗礼において新生を、血は聖餐による罪の赦しと聖化を、聖霊はそれらが私の真実であることを証しします。

 移ろいやすい感情や人の言葉に頼ることなく、御子の受肉と十字架の贖いという事実において救いの恵みを受けるのです。教会そして私たちは公の礼拝を守り聖礼典を執り行うことを通して、「神の証し」という恵みを主の再び来られる日まで宣べ伝えます。

 「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(マルコ1:11)

(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)


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