ルカによる福音書2章41-52節「神に喜んでいただくため」
2026年1月4日
牧師武石晃正
主の恵みのうちに2026年の新しい年を迎え、最初の主の日の礼拝を御堂に会して守ることができます幸いを主なる神に感謝いたします。振り返れば数年前に世界を覆った感染症においては「主の日毎に礼拝を守り、時を定めて聖礼典を執行する」(日本基督教団教憲第8条)ことさえ危ぶまれるという試練があったことを思い起こします。
様々な規制を受ける中にあっても主なる神は私たち米子教会を守ってくださり、私たちはただ神様の憐れみによって礼拝を絶やすことなく続けられました。一方で社会においては近年「コンプライアンス」という言葉を耳にするように、法人や組織において規則や倫理への忠実さが問われる時代になりました。
果たして信仰による自由を与えられた者はこの世における法や秩序からも全く解放されたのでしょうか。本日はルカによる福音書の少年イエスの姿に使徒たちの言葉を照らしつつ、「神に喜んでいただくため」の生き方について御言葉に聴きましょう。
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1.主の謙遜と秩序への尊重
朗読の箇所は「イエスが十二歳になったとき」(42)とありまして、聖書の中でイエスの少年時代について記されているのはルカによる福音書だけです。当時のユダヤ社会において12歳から13歳という年頃は宗教的な大人としての責任を負い始める大切な時期でした。
主イエスの両親であるヨセフとマリアは、毎年過越祭にはエルサレムへ旅をしていました(41)。ガリラヤのナザレからエルサレムへの巡礼は何日もかかる大変な道のりでしたが、マタイによる福音書がヨセフを「正しい人」と呼ぶとおり彼は主なる神の掟を実直に守る人でした。
かくして主イエスはこの「正しい人」ヨセフの背中を見て育ちました。神の子であるからといって幼子イエスが超能力を使って一足飛びに大人になったり、空を飛んでエルサレムに行ったりしたわけではないのです。
全き神である方は全き人として親に従い、また当時の掟に従って一歩一歩その「背丈」を伸ばされました。ところが神童が大人を論破したという話のようにこの箇所が読まれだり語られたりすることもあるようです。
エルサレムの神殿で少年イエスが学者たちの真ん中に座って話をしていた場面において、学者たちを論破したり上から教えたりしていた様子は書かれていないでしょう。「話を聞いたり質問したりしておられた」(46)というのですから、あくまでもイエスは神殿の境内において学ぶ者の姿勢をとっておられます。
神の知恵そのものであるお方が人間の教師たちの言葉に耳を傾け、敬意を持って質問なさったところに神の謙遜が示されています。そもそも「祭りの慣習に従って」(42)イエスの両親が都へ上ったとき、イエス自身もまた両親と掟に従っておられたのです。
もし少年イエスが「私は神の子だ。お前たちより偉いのだ」と言って、神の子としての特権を神殿で振りかざしていたらどうなっていたでしょうか。それは神殿の秩序を乱すことになり、父ヨセフの顔に泥を塗ることになったでしょう。
けれども若き日のイエスは、神殿という場における秩序(コンプライアンス)を誰よりも深く尊重されました。それはただ形式を守るためではなくそこに集う人々への愛によるものであり、何よりも父なる神への従順の表れでした。
2.特権の放棄と身代わりの従順
両親が息子イエスを見つけたとき、母マリアは「お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(48)と言いました。それに対してイエスは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」(49)と答えられます。
このやり取りで少年イエスはご自分の本当の父が天におられる神であることを示されたわけですが、驚くべきことはその後の行動であります。「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」(51)のです。
天の父の家にとどまる権利つまり神の子としての特権を持っておられるのに、あえて地上の両親のもとに下って「仕えられた」ということです。ここで「仕えて」と訳されている語は「従う」とも訳される動詞ですが、軍事的な「服従」や秩序への「配置」を意味する言葉が用いられています。
全能の神の子が被造物にすぎない人間の夫婦という権威の下に、自らを配置したということです。神であるお方が人に従うこと、創造主であるお方が被造物のルールの下に身を置かれたこと、これこそがキリストの「特権の放棄」です。
なぜそのようなことをされたのでしょうか、それは私たち罪人の身代わりとなるためです。私たちは神からの掟も人間同士の規則も十分に守ることができない、罪ある者です。
自分に都合が悪くなれば嘘をついたり隠れて不正を行ったりと、まるで「どぶや肥溜め」に落ちたような汚れを負っています。自分の手どころか全身が汚れておりますから、顔でも拭おうとしたところで一向にきれいになることはできないような者です。
そのような私たちが「神の子」とされるためには、全く罪のない完全な従順を貫かれた方が必要でした。イエス・キリストは私たちと同じ不自由な肉体と社会の制約の中で、神の子としての特権を使うことなく完全に神と人に従い抜いてくださったのです。
ここで主イエスが「神の子だから何でも許される」という特権を使ってしまわれたら、私たちの救いは完成しませんでした。神の子としての特権を行使するかどうか大きく揺さぶられた場面の一つが「荒れ野の誘惑」(4:1-13)です。
あの荒れ野の誘惑で悪魔に「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(4:3)とそそのかされた時、主は自分のために奇跡を使うことを拒否されました。十字架の上でも「神の子なら、自分を救ってみろ」(マタイ27:40)と罵られましたにもかかわらず。主イエスは特権を使うことなく死に至るまで従順であられました。
パウロという使徒もまたこのイエスの姿に倣った人です。テサロニケの信徒への手紙で、パウロは「わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができた」(テサロニケ一2:7) と述べていますが、実際には教会に対してどのような姿勢をとったでしょうか。
使徒であるパウロには、教会から尊敬を受け、経済的に支えられる権利がありました。しかし彼はその特権を放棄することにより、「幼子のようになり」あるいは「母親がその子供を大事に育てるように」教会に対して優しく接したのでした。
そればかりか自ら働いて彼らの重荷にならないようにしたというのです(同9)。一体なぜでしょうか、その動機と目的はただ一点「人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくため」(4)ということにありました。
3.神と人とに愛される生き方
現代の「コンプライアンス」というものについて考えるとき、ともすれば堅苦しさや「罰せられないため」「批判されないため」という恐れが先に立つのではないでしょうか。しかし私たちキリスト者の「従順」はそれとはまったく異なる動機であります。
神と人とに愛された主イエスは「あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」という2つの戒めをもって、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:40)と説かれました。神を愛するゆえに御言葉に聞き従い、それと同時に隣人を愛するゆえに人間の立てた制度にも従います。
律法に従順であるキリストが十字架の死によってすべての罪を贖われたので、私たちは神の子としていただくことができました。私たちは「キリストと共に死んだ」のですから、自分のわがままな自我や自分の権利ばかりを主張する古い性質はもはや死んだものとなりました。
だからこそ私たちは真理によって自由とされ、世間の目を恐れながらではなく私を愛して救ってくださる神に喜んでいただくために生きるのです。教会もまた天の国に属するものであるとしても、地上に置かれている以上は「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」(ペトロ一2:13)と命じられています。
イエスご自身が「ヨセフの子」と呼ばれることで、幼子のうちより律法に従順であったことを示されました。この方を信じて従うキリストの弟子は神を愛するゆえに御言葉に聞き従い、隣人を愛するゆえに人間の立てた法律や規則にも従うのです。
職場や家庭あるいは学校という生活の場において「私はキリスト者だから特別だ」と言ってルールや秩序を無視するのではなく、キリスト者だからこそ誰よりも誠実に誰よりも喜んで人々のために汗を流します。このような生き方を貫くことで、私たちは「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(51)御子に似た者になるのです。
<結び>
「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(ルカ2:51-52)
少年時代の主イエスは神の子としての特権を振りかざすことなく、全き人として両親や社会の秩序に従って歩まれました。天の父との絆を自覚しつつもあえて地上の両親に仕える道を選ばれたのは、私たち罪人を救うために完全な従順を貫き通す救い主としての歩みでした。
キリスト者は主の十字架によって罪を赦され、古い自分に死んで新しく生かされました。特権を主張せず、神を愛するゆえに御言葉に聞き従い隣人を愛するゆえに社会の規範をも誠実に守ります。
あなたは神と人とに愛される幸いな人生を望みますか。神と人とに愛された少年イエスの姿に倣い誠実に仕えることこそ、神に喜んでいただくための真に自由な生き方です。
「わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。」(テサロニケ一2:4)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)