マタイによる福音書7章24-27節「岩を土台として」

 2026年1月1日
牧師武石晃正

 あけましておめでとうございます。主の年2026年の今朝、皆様はどのような思いを抱いて礼拝堂に入ってこられたでしょうか。
 今年2026年という年は私たち米子教会にとっても私たちが属するホーリネスの群にとっても、一つの大きな節目であります。ホーリネスの群が結成80周年を数える傍らで米子教会は諸般の事情で遅れながらも創立百十周年記念誌を発刊いたしますが、いずれにおいてもこれまでの歩みを振り返りつつ新しい宣教第2世紀へと踏み出しています。

 新しい働きへと踏み出すにあたり主イエスは「湖の向こう岸に渡ろう」(ルカ8:22)と弟子たちを招かれました。新年早々から「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(同25)と問われることのないよう、マタイによる福音書を開き「岩を土台として」と題して教会と私たち一人ひとりの信仰を確かにしましょう。

PDF版はこちら


1.岩の上に土台を置く

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(24)と主イエスは言われます。今日から始まる一年において、私たちのうちにキリストを住まわせる「家」を岩の上にしっかりと建てましょう。
 家を建てる際に最も重要なのは壁の色でも屋根の形でもなく、何の上に建てるかという土台です。主イエスはここで「岩の上に建てる賢い人」と「砂の上に建てる愚かな人」という二種類の建築家を対比させています。

 ここで言われている「岩」とは何でしょうか。ある箇所で主イエスは使徒ペトロの信仰告白に対して「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(16:18)と宣言し、その中で「岩」という語を用いておられます。
 使徒パウロはある箇所で「この岩こそキリストだった」(コリント一10:4)と記していますが、今日の箇所で主イエスご自身は「岩」をさらに具体的に定義しておられます。それは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」(24)です。

 聞くだけでなくそのとおりに行うのですから、私たちの生活における最終的な決定権をどこに置くかということが求められます。岩の上に自分の家すなわち生き方を建てるとは、聖書が右と言えば自分の感情が左と言っていても右へと舵を切ることです。
 あるいは世間の常識が「後ろだ」と言っていても御言葉に従って前へ進むことです。聖書を単なる良い教えの参考書としてではなく「信仰と生活との誤りなき規範」(日本基督教団信仰告白)として心に据えることが「岩」なのです。

 対して「砂」とは何でしょうか。それは「変わりゆくもの」であり、私たちの感情やその時々の流行、経済状況そして世間の評判などがそれにあたるでしょう。
 砂は柔らかく杭を打ち込むのも簡単ですし、自分の都合に合わせて形を変えることも容易です。「聖書にはこう書いてあるけれど、今の時代には合わないよね」「私の気持ちとしては納得できないよね」と御言葉を人間の都合に合わせて解釈するとき、私たちは「砂」の上に家を建てることになります。

 現代の日本という国においてこの「砂」が及ぼす力は非常に強いものです。テレビや雑誌の占いに一喜一憂しては死者崇拝の習慣に妥協し、「みんながそうしているから」という理由で流されていくならば心地よく都合のよい生き方をすることができるでしょう。
 教会としても流行りものに飛びついたり地域の必要に沿ったりすれば情に棹(さお)さすことになり、集会の人数や洗礼者が増えることもありましょう。しかし神の家をこの世の必要の上に建てようものなら、主イエスは「倒れて、その倒れ方がひどかった」(27)と警告されるのです。

 ではどうすれば「岩」の上に建てることができるのでしょうか。同じ教えを記しているルカによる福音書を開いてみますと、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて」(ルカ6:48)と一つの行程が補われています。
 地面が砂地や雑草の生えている柔らかい土であるならば、岩の上に建てるためには「掘る」という作業が必要です。砂を掘り起こしては石ころを取り除き固い岩盤が露出するまで掘り進めなければなりませんから、人間の思いや計画どおりに進めることができない大変な重労働であり時には痛みも伴います。

 思えば米子教会において創立110周年を数えた2019年から記念誌発刊に至るまでなんと7年もの遅れが生じたことです。これは人の目には事業の遅延や停滞と映りますが、教会が単なる建築物ではなくキリストを住まわせる「家」であるために岩を土台として建てられることに必要な歳月でもありました。
 この「掘り下げる」作業こそ信仰における「悔い改め」であると言えるでしょう。私たちの心にはプライドや自己中心、長年の習慣あるいは虚栄心などがうず高くまた根深く積もっているのです。

 キリストの体である教会においても、その働きや実績を主から賜った恵みとしてではなく自らの業績として掲げるなら「砂の上に家を建てた愚かな人」(26)のようです。もし仮に牧師が100人また1000人に洗礼を授けるほどの大きな働きをしたとしても、それを自分自身の手柄や栄光として誇るような者は「倒れて、その倒れ方がひどかった」(27)という結末を避けられないでしょう。
 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリント二5:17)と使徒パウロが記しています。「あなたは本当に新しく生まれたか?」「あなたは自分の経験や常識という土の上に、ただキリスト教というペンキを塗っただけではないか?」と私たちは今日、問われています。

 古い性質を取り除かずにその上からいくら聖書や信仰的な言葉だけを並べても、それは砂上の楼閣に過ぎず程度によっては「白く塗った墓に似ている」(23:27)とさえ言われるのです。「新生」とはたとえて言うならばすでに建っている古い家を一度解体し、基礎から新しく建て直すことです。


2.礼拝によって御言葉に立つ

 なぜ、そこまでしてキリストの弟子は「岩」にこだわらなければならないのでしょうか。それは、必ず「嵐」が来るからです。
 主イエスは「もし雨が降ったら」とは言わずに「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」と断定的に語られました。信仰者であっても地上の生涯においては病気、別れ、失敗、孤独など避けられない嵐があるのです。

 そして、私たちホーリネスの群にとってこの「嵐」という言葉は特別な響きを持っています。1946年に私たちの信仰の先輩たちが「ホーリネスの群」を結成してから、今年はちょうど80年目の節目を向かえる年であります。
 遡って1942年のこと、戦争という嵐そして国家権力による弾圧という嵐がホーリネスの教会に襲いかかりました。「イエス・キリストこそ再臨の王である」との告白のゆえに、牧師たちは捕らえられある者は獄中で命を落とし、教会は解散させられました。

 外から見れば彼らの「家」は壊されたように見えましたが、しかしその「信仰の土台」が揺らぎはしなかったのです。嵐が過ぎ去った1946年、焼け野原に残ったのはこの「岩」の上に立つ信仰でありました。
 1909年を創立とする米子教会も110余年の歩みにおいて嵐のような困難に遭いました。分裂という耐え難い痛みから立ち上がるにあたり、「米子教会の再生には礼拝によって御言葉に立つことしかあり得ない」(米子教会創立百十周年記念誌、p.59)と聖霊の息吹が注ぎ込まれて20年が経ちました。

 「一同ここから宣教第2世紀の歩みを始めた」(同、p.66)とはいえ創立100周年を迎えた2009年の米子教会は突風が吹き下ろすガリラヤ湖で荒波に揉まれる舟のようでした。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(ルカ8:25)とイエスのお叱りの言葉をいただいて早15年、米子教会はいまだに嵐の湖上を漂ったままでいるのでしょうか。
 「礼拝によって御言葉に立つことしかあり得ない」との確信に立つ教師が2025年に再び立てられました。「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:11)と預言者イザヤを通して語られたとおり、15年また20年と隔ててようやく「米子教会の再生」と「宣教第2世紀の歩み」が動き出そうとしています。

 今こそ私たちは「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(24)となりましょう。聖書を開くとき単なる知識としてではなく家を建てる「設計図」のように読み、そして「これらの言葉を聞いて行う者」として生活の「現場」で実際に信仰を建て上げていきましょう。
 ホーリネス信仰の「四重の福音」も「新生・聖化・神癒・再臨」とお題目のように唱えれば救われるというものではなく、あなた自身が悔い改めて生まれ変わり、御言葉と聖霊によって日々にきよめられる信仰の歩みです。2026年は祈りをもって自分の心を掘り下げ、揺るがない岩なるキリストの上に一人ひとりの人生を、そしてキリストを頭とする教会をしっかりと建て上げる土台を据えましょう。


<結び>

 「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(マタイ7:25)

 岩を土台として自分の家を建てるとは、聖書を単なる知識ではなく生活の規範として聞き、行うことです。自己中心や誇りという砂を悔い改めによって深く掘り下げ、揺るがないキリストの上に人生を据え直すのは「新生」に始まる「聖化」の歩みです。
 地上の生涯には必ず嵐が訪れますが、御言葉に立つ教会は国家弾圧や分裂の痛みという試練をも乗り越えてきました。だからこそ「礼拝によって御言葉に立つ」という確信を握り直し、宣教第2世紀への歩みを踏み出すのです。

 祈りをもって心を掘り下げ、岩なる主と共に揺るぎない教会と人生を建て上げましょう。岩の上に立つ教会には陰府(よみ)の力でさえも抗うことができないのですから、岩を土台として2026年の歩みを私たちは主の前に堅く建て上げます。

 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:18-19)

(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)


このブログの人気の投稿

マタイによる福音書27章32-56節「十字架への道」

ルカによる福音書24章44-53節「キリストの昇天」

マタイによる福音書20章20-28節「一人は右に、もう一人は左に」