マルコによる福音書1章12-15節「民の罪を償うため」
2026年2月22日
牧師 武石晃正
2月も下旬を迎え、大山(だいせん)の山肌を覆っている雪を眺めつつも春の訪れを待つ静かな希望を感じる季節となりました。その一方で教会暦では今週より「受難節」の主日を数え、主イエスが私たちの救いのために十字架へと向かわれた苦難の道のりを深く黙想する期間に入っております。
2026年は復活節(イースター)を4月5日に望みつつ、受難節第1主日において私たちは主イエスがお受けになった「荒れ野の誘惑」の場面に耳を傾けます。本日はマルコによる福音書を開き、「民の罪を償うため」と題して全き人となられた全き神の子キリストの救いに思いを深めてまいりましょう。
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1. 荒れ野へと投げ出された神の子
マルコによる福音書は「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」(12)とだけ、他の福音書に比べて極めて端的に主の生涯が記されています。端的とはいえ「送り出した」という言葉は強いて訳すならば「外へ向かって放り出す」という意味がありました。
少し記事を遡ると主イエスが公生涯の初めに洗礼者ヨハネのもとへ赴き「悔い改めの洗礼」を受けられたことが記されています。ヨハネから洗礼を受けた直後に天からの声「あなたはわたしの愛する子」との宣言を受けた方が、なんと栄光の座ではなく孤独と試練の場である荒れ野へと投げ出されたのだというのです。
何不自由なく飢えも渇きも一切の汚れもない方が罪と汚れの世に私たちと同じ肉体をとって生まれてくださったことは、それだけでも十分な卑しめでした。ところが悔い改めなければならない罪人の一人として数えられた挙句、神の子が荒れ野というヨルダン川の向こう側へと追いやられたのだとマルコによる福音書は伝えています。
信仰をいただいて救われたはずなのに、洗礼を受けた途端に不幸や困難に直面するということが私たちには起こります。クリスチャンにならなければこんな悩みも葛藤もなかったはず、教会の礼拝に通っていても実感として得るものがないという思いが湧くのです。
これらがあなたにとって「荒れ野」であるならば、あなたを神の子であるがゆえに神の霊が強いてそこへ投げ込んだと考えることもできるわけです。そこはあなたが自分の持っている既得権あるいはこの世での利益を全て手放して、キリストの恵みと父なる神の愛に全てを委ねているかどうかが試される「荒れ野」です。
主はそこで40日間とどまり、マタイやルカの福音書にあるように断食をされました。この「40日」という期間を全うした後、主は「空腹を覚えられた」(ルカ4:2)のです。
肉体が弱ればそれに伴って霊も激しい誘惑にさらされますから、これはただの絶食ではなく人間としての「肉体の弱さ」を極限まで経験されるための期間でした。後に主はゲツセマネの園で弟子たちに「心は燃えても、肉体は弱い」(14:38)と告げられたことですから、この荒れ野での40日間はあの死を覚悟しては祈りながら血のような汗を流された「引き渡される夜」へとすでに向かっておられたことを意味しています。
そしてこの「40日」という日数は、かつて旧約における神の人モーセがシナイ山で断食した日々に重なります(出34:28)。主イエスは洗礼を受けられて荒れ野へ放り出されたその時から、モーセが律法を授かるために神の前に立ったように「信仰の創始者また完成者」(ヘブライ4:12)また「全き人間」として御父の前に身一つで立たってくださいました。
2.御父への信頼を貫く神の子
改めて主が荒れ野で誘惑を受けねばならなかったのか、その意味について考えてみましょう。ヘブライ人への手紙を開きますと「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました」(ヘブライ2:14)と記されています。
おとめマリヤより生まれた御子イエスは、神としての力を誇示するために人としてこの世に現れたわけではありませんでした。それは死の恐怖に縛られている私たちを解放するために、壊れやすく疲れを覚えては空腹に苦しむ「肉体」をあえてまとわれたのです。
断食の果てに主が激しい空腹を覚えられたことはマタイやルカによる福音書に記されています。その時に神の子としての特権を用いて石をパンに変えるということはもちろんおできになったはずです。
けれども主はそのような特権や力をご自分のためにはお使いにならなかったのです。もしそのように都合よく神の力を行使しようものならば、主は私たちの「弱さ」を共に味わってくださることができなくなるからでした。
あるときには主イエスは嵐の小舟の中でさえ眠り込むほどに疲れ果てたことですし、後にゲツセマネでは「肉体は弱い」と呻かれました。神の子が被造物である私たち罪人と同じところまで降りてきてくださった「受肉」という苦しみによって、私たちをただ救うだけでなく救われた後も憐みをもって助けてくださることがおできになるのです。
他の福音書との比較としてマルコ独自の描写に「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(13)というものがあります。荒れ野の「野獣」とは空腹の主イエスに迫る現実の死の危険であるとともに、悪魔すなわちサタンの誘惑の力を表しています。
旧約においてモーセが律法を授かったシナイ山では、獣が近づくことすら禁じられ守られていました (出19:12-13)。しかし主イエスは、自ら野獣の脅威のただ中に身を置かれました。
神の子である主イエスはその力を使って野獣を退けることも、石をパンに変えることも容易におできになったはずです。ただしその力を思うままに使ってしまえば人間であることの領分を超越してしまいますから、私たちと同じ人間であることも救いを成し遂げることもできなくなるのです。
それゆえに主は神の子としての特権を放棄し、身を守ることの一切を御父に委ねられました。そして生涯を通してののしられてもののしり返さず、ただ御父への全き信頼を貫かれたのです(ペトロ一2:23)。
そのようにして誘惑に打ち勝たれた時、天から天使たちが降りてきて主に仕えました。信仰の上で孤独で絶望的な闘いの中にあっても神の確かな守りと助けが必ずあるという希望を私たちはここに見出すことができるのです。
3.民の罪を償うために
さらにヘブライ人への手紙に目を留めてまいりますと、神の独り子がこれほどまで肉体の弱さと苦しみを経験されなければならなかった目的にたどり着きます。そこには「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(ヘブライ2:17)と書かれおり、「償う」とは罪の汚れを拭い去るとともに神との和解を成し遂げることを意味しています。
罪人である私たちの人生の根底には「死の恐怖」があり、その恐怖のために誰もが一生涯この罪の奴隷状態に置かれています。主イエスは私たちをこの状態から解放し、悪魔を御自分の死によって滅ぼすために私たちと同じ「血と肉」を備えられました。
もし主イエスが肉体の弱さを持たずに飢えも苦しみも感じない神のままであったなら、私たち人間の苦しみとは何の関係もない方だったでしょう。けれども主は実際に飢えを覚えて疲労困憊しては、サタンの誘惑の恐ろしさを身をもって味わってくださいました。
罪を犯すことこそなさらなかったものの、主イエスは「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。こうして自ら試練を受けて苦しまれたからこそ、主は誘惑の中で苦しむ私たちの弱さを真に理解し助けることができる「憐れみ深い、忠実な大祭司」となってくださいました。
主イエスが荒れ野の試練を戦い抜きやがて十字架へと向かわれたのは、実にご自分の民の罪を償うためでありました。神の聖なる怒りをなだめて私たちの罪の代価を完全に支払うために、主はご自身を献げられたのです。
主が荒れ野で己を虚しくされたように、私たちもまた自らの弱さを認めて大祭司キリストの前に近づきましょう。そして罪を告白し、聖霊による聖化を求めて歩み出すのです。
罪の贖いはゴルゴタの十字架においてキリストがただ一度ご自分を全きいけにえとして神にささげられたことで成し遂げられました。それだけでなく主はご自分が試練を受けて苦しまれたので、現在進行形で試練の中にある私たちを今もなお助けることができる救い主となられました。
40日40夜の荒れ野での誘惑に打ち勝たれると、主イエスはガリラヤへ戻られれて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と神の福音を宣べ伝え始めました。私たちは差し迫った天の国の到来への備えは十分でしょうか。
「神の国が近づいた」とは、神の支配がもはや避けられない勢いで私たちの現実に迫っているということです。荒れ野で乏しさと飢えを覚えた方が民の罪を償うために十字架の死にまで従われたのですから、この受難節にあたり私たち各々がまず神の前で自らの罪を告白し、きよめていただきましょう。
<結び>
「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」(ヘブライ2:17)
御子イエスが私たちと同じ肉体の弱さと誘惑を経験されたのは、民の罪を償う「憐れみ深い大祭司」となるためでした。神の子としての特権を捨てて御父への信頼を貫かれた主に従い、私たちは自らの罪を悔い改めて神の国への備えをなしましょう。
たった今この時にも人生の荒れ野の中で様々な誘惑や弱さという「野獣」に囲まれて苦しんでいる方はおられるでしょうか。私たちには弱さを知る憐れみ深い大祭司が共におられるのですから、民の罪を償うためにすべての試みに勝利された主イエス・キリストの助けをいつも頼りに歩みます。
「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1:14-15)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)