マルコによる福音書4章1-9節「種を蒔く人」
2026年2月1日
牧師 武石晃正
近頃では冬の寒さを億劫に感じることも増えてまいりましたが、子どもの頃は水たまりの薄氷を踏み割ったり霜柱を崩したりしながら音を立てて歩くのがとても楽しかったと懐かしく思います。同じ凍った地面であっても踏んだ時の感触や音が舗装された固い道端と柔らかい土の上では全く違うので、子ども心に好奇と驚きを与えてくれたものでした。
2月に入り、如月とは「衣更着(きぬさらぎ)」衣類を重ねて着なければならない寒さを覚えることであります。本日はこの寒さを覚えつつ、マルコによる福音書を開き「種を蒔く人」と題してきよめ主キリストの恵みに与りましょう。
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1.茨の中か良い土地か
ガリラヤ湖のほとりで主イエスが語られたとき大勢の群衆が集まっておりましたが、そのすべての人に手放しで真理を語られたわけではありませんでした。それは「たとえ」を用いて語ることによって、真理を隠すのではなく本当に「聞く耳がある者」すなわち真理を求めて飢え渇いている者を選び出すためでありました。
主はたとえでいろいろと教えられる中で、種を蒔く人のたとえを説かれました(3)。農夫が種を蒔くとき種は選り好みすることなくあらゆる場所に落ちていき、その先には4種類の土地が登場します。
神の言葉が蒔かれるとき、その恵みは分け隔てなくすべての人に注がれていることが示されています。ところが土地にたとえられている聞く者たちの心は道端や石だらけの所、あるいは茨の中そして良い土地と様々であるというのです。
教会は公の礼拝を守り、その中で神の言葉である聖書から福音を宣べ伝えます。公でありますから分け隔てなく開かれており、米子教会では礼拝堂の中ばかりでなくオンラインでも説教を出し惜しみなく公開しております。
蒔かれる言葉は同じであっても聞く者の心という土地の状態によって結果は大きく異なります。悪い種を蒔くのであれば言語道断でありますが、このたとえが教えているのは神の言葉が蒔かれたときに実を結ぶかどうかは土地の良し悪しによるのだということです。
そのうち特に注目したいのは「茨の中」に落ちた種です。「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」(7)と主は説かれます。
後に主イエスはこの「茨」について「世の思い煩い、富の欺き、その他の欲望」 (19)であると弟子たちに説き明しておられます。道端や石だらけの所と大きく異なる点は、茨の中であっても蒔かれた種が芽を出しているということです。
茨の中ですから吹きさらしの大地よりは湿り気があるでしょうし、出てきたばかりの柔らかい芽は強烈な日差しから守られて穏やかに育つことができるでしょう。初めのうちはともすれば良い土地に蒔かれた種よりも発育が良いことも考えられるのです。
けれども同時に育った茨の勢いが勝り、「茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」(7)という始末です。いくらイエス・キリストの救いの言葉が語られたとしても、「御言葉を覆いふさいで実らない」(19)のだと主が断言されているのです。
ここで使徒パウロの手紙であるコリントの信徒への手紙一に照らしますと、この「茨」こそが「この世の知恵」また「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」であると気づかされるところです(コリント一2:6)。私たちは教会に来て御言葉を聞いては救いの恵みに感謝する一方で、ひとたび教会の外に出るならば「この世の知恵」が渦巻いています。
もちろんこの世の人たちと全く付き合いをしないということであれば、私たちはこの世から出ていかなければならなくなってしまうでしょう(コリント一5:10)。しかし「茨の中」という土地の問題は神の言葉を拒んだことにあるのではなく、この世の知恵を神の言葉に混ぜ込んで信仰の中に「共存」させようとしたことにあるのです。
「聖書の言葉は正しいかもしれないが、人にはそれぞれ事情がある」と初めから信仰を割り引こうとするならば、御言葉を聞いても礼拝の席に座りながら心の中で「主よ、私の生活のこの部分には干渉しないでください」と覆ってしまうことと同じです。そのような人はナザレのイエスを神の聖者であると認めながらも「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と叫んだ「汚れた霊に取りつかれた男」さながらであります(1:24)。
信仰とこの世の知恵を自分に都合よく折り合いをつけるならば賢い生き方のように思われるかもしれませんが、そのような者は聖書では「心の定まらない者」(ヤコブ4:8)などと呼ばれています。パウロが語るようにこの世の知恵は最終的には栄光の主を十字架につけるものであり(コリント一2:8)、すなわち私たちの心の中で世の計算や見栄が主イエスからいただいた命を窒息させてしまうことになるでしょう。
「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(8)と主イエスは「聞く耳のある者」(9)へ語られます。勢いだけで実を結ばないような心を清めていただくことにより、御言葉を聞いて受け入れる人たちは「良い土地」として神の御前に豊かな命を実らせます。
2.成熟した信仰と聖化
では、どうすれば私たちは「良い土地」になれるのでしょうか。土は自らを変えることはできないとしても「私は石地だ、茨の中だ」と絶望する必要はなく、「種を蒔く人」である神の御手に委ねることはできるのです。
「この世の知恵」に対してパウロは「わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」(コリント一2:6)と語っています。ここで「成熟した人」と言われているのは何一つ欠点のない完全な人間のことではなく、「神の知恵」と「この世の知恵」の違いを見分けることができる人であり、神の霊によって養われている人のことです。
マルコによる福音書の「良い土地」とは、まさにこの「成熟した信仰」を持つ人の心です。良い土地とは生まれつき石ころも茨もないような全くきれいな土地のことでしょうか、そのような土地があるかどうかは農業を知る方ならご存知でしょう。
最初から良い畑などあったとすればエデンの園ぐらいであります(創世記2:9)。良い土地とは農夫によって石が取り除かれては雑草が根こそぎ抜かれ、深く耕された土地のことを指しています。
雑草を抜いて地面を掘り、石を取り除く作業は「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(マタイ7:24)と相通じています。「神は、“霊”によってそのことをわたしたちに明らかに示してくださいました」(コリント一2:10)とパウロが言うように、聖霊の働きによって私たちの心の深みが探られます。
私たちの内には頑なな岩のような自我や複雑に絡み合った世への執着という茨があり、聖霊と御言葉の光がその事実を明らかに照らします。では茨だらけの私たちがどうすれば「良い土地」へと変えられるのでしょうか。
おそらく山陰でも見られることでしょう、冬の寒い時期になると私の田舎のほうでは農家の方々が「寒起こし」あるいは「天地返し」と呼ばれる作業をされます。あえて土を深く掘り起こして冷たい寒風に晒すことによって土の中に潜む病害虫を死滅させ、掘り起こされた土の塊は崩れてふかふかの柔らかい土へと生まれ変わるのです。
ホーリネス信仰が大切にしてきた「聖化(きよめ)」と「世からの分離」とは、まさにこの心の「寒起こし」や「天地返し」ではないでしょうか。主なる神は時として厳しい試練や思い通りにならない苦しみという厳しい寒さを通して、私たちの心を深く耕されることがあります。
たとえにおいて「良い土地」と呼ばれているのは、この神の耕しを受け入れた人であり「成熟した人」です。成熟した人たちは自分の力ではなく聖霊によって「神の深み」へと導かれ、「この世の知恵」を捨てて十字架という「神の知恵」だけを選び取りました。
この世の知恵は手に取ることができる豊かさを求めさせ「強くなれ、高くなれ」と言いますが、神の知恵は一粒の麦として地に落ちて死ぬことを教えます(ヨハネ12:24)。この逆説的な「隠されていた、神秘としての神の知恵」(コリント一2:7)を受け入れ、十字架の恵みに全き信頼を置くことこそ「良い土地」であることの本質です。
鍛錬というものが喜ばしいものではなく悲しく辛いものに思われるとしても(ヘブライ12:11)、主は私たちをいたずらに苦しめようというのではないのです。神は私たちの奥底まで根を張っている「この世の知恵」という茨を枯らし、「罪の性質」という害虫を退治することによって御言葉を聞いて受け入れる「良い土地」へと造り変えてくださいます。
また「世からの分離」とは社会から逃げ出すことではなく、心の中で「この世の知恵」に頼ることをやめて「神の知恵」に方向転換することです。富や名声を私たちの支えとすることをやめ、神の言葉だけが私を生かすのだと腹を据えることです。
すると「隠されていた、神秘としての神の知恵」すなわち十字架につけられたイエス・キリストこそが、私たちの真の救いであり力であることを心の底から味わい知ることができるようになります。道端のように踏み固められた心も、石だらけの浅い心も、茨に覆われた心も、聖霊という鍬(くわ)によって耕されれば、必ず三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ良い土地へと造り変えていただけるのです。
<結び>
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」(マルコ4:3-6)
キリストの救いの言葉は全ての人に蒔かれますが、世の思い煩いや欲望という「茨」が塞いでしまうことがあります。良い土地とは農夫である神によって耕された心であり、主は時に試練という冬の寒風を通して私たちの自我や世への執着を根こそぎされます。
この聖霊によるきよめを受け入れイエス・キリストの十字架という神の知恵にのみ信頼して生きる時、私たちの内には豊かな命が実を結ぶのです。あなたがキリストの十字架の前に隠れた罪をもすべて差し出すなら、種を蒔く人である神ご自身が私たちの魂を耕して良い土地に造り変えてくださいます。
「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」(コリント一2:12)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)