ヨハネによる福音書20章1-18節「三日目に復活したこと」
2026年4月5日
牧師 武石晃正
受難節(レント)における主イエス・キリストの十字架への深い苦難と死の歩みを覚える日々を経て、本日は輝かしい復活節第1主日すなわちイースターの朝を迎えました。主イエス・キリストは冷たい石の墓に閉じ込められることなく、死の力と暗闇の支配を完全に打ち砕いて三日目に死人のうちよりよみがえられました。
圧倒的なキリストの勝利の知らせは2000年近い隔たりと国や民族の壁を超えて、今日この場に集う私たち一人ひとりにも等しく届けられています。本日はこの復活節の礼拝においてヨハネによる福音書を開き、「三日目に復活したこと」と題して主の復活という歴史的事実とキリストの体である教会の歩みにについて御言葉に心を向けましょう。
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1.なぜ泣いているのか
キリスト信仰において「復活」の喜びを語るためには、決して避けて通ることのできない厳粛な前提があります。それは、主イエスが完全に死んで葬られたという事実です。
「復活」という言葉を「復(ま)た活きる」と読み下すならば、キリストは再び生きるために一度完全に命が絶たれ死の支配下に置かれなければなりませんでした。仮死状態から息を吹き返したという程度の話ではなく、私たち人類のすべての罪をその身に背負ったゆえに父なる神から見捨てられてまで死の苦しみを味わい尽くされたのです。
アリマタヤのヨセフとニコデモによってイエスの遺体は亜麻布で包まれて「だれもまだ葬られたことのない新しい墓」(19:41)に葬られました。その入り口が大きな石を転がしてふさがれたことは(マタイ27:60)弟子たちにとってすべての希望の終わりであり、絶対的な絶望の象徴でした。
しかし、イエスの死は終わりではありませんでした。父なる神はモーセと預言者たちに与えた御言葉の成就として、主イエスを三日目に死者の中から復活させられたのです。
朗読の箇所はその「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうち」(1)に起きた出来事です。その早朝、マグダラのマリアが深い悲しみの中で主の墓を訪れました。
愛する主を失ったこのマリアにとって、せめてその遺体に香料を塗って最後の世話をすることだけが残されたささやかな慰めとなるはずでした。ところが彼女は「墓から石が取りのけてあるのを見た」(1)ために慰めを得る間もなくなってしまいました。
涙でまぶたを腫らしたままマリアは主の弟子たちのもとへと走って行ったのでしょう。そこで彼女は見てきたままに「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(2)と弟子たちへ告げました。
彼女の知らせを受けて走ってきたペトロとヨハネが墓の中に入ると(5,6)、そこには決定的な証拠が残されていました。主の遺体を包んでいた亜麻布がそのまま置かれ、頭を包んでいた覆いが別の場所にきちんと丸めて置かれていたのです(7)。
マタイによる福音書はユダヤの指導者たちが番兵たちに多額の賄賂を渡し、「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」(マタイ28:13)と嘘の噂を流させたと明かしています。ところが実際のこの墓の中の光景はこのような嘘がいかに安直であるかを示しています。
もし盗賊が遺体を盗んだのなら高価な香料がついた布ごと持ち去るか、あるいは逆に無造作に剥がして捨てていくでしょう。亜麻布と頭の覆いの布がそれぞれに置かれていたという事実は、もはや布と香料で覆われる必要のない体をもって主イエスがよみがえられたことを示しています。
それでもマグダラのマリアは「墓の外に立って泣いて」(11)おりました。十字架の死と埋葬という重い現実を目の当たりにしていたので、彼女は目の前にいる「白い衣を着た二人の天使」(12)のことも彼らの言葉もただちには受け入れることができなかったのです。
後ろを振り向いたマリアの目に「イエスの立っておられるのが見えた」(14)ことには見えました。深い悲しみと絶望によって彼女の目は遮られておりましたから、「それがイエスだとは分からなかった」というのも仕方のないことです。
週明けの早朝から墓所を訪れては「だれを捜しているのか」(15)と問うものですから、マリアが園丁すなわち墓所の管理人だと思ったことにもうなずけます。主ご自身であることに気づかずに、マリアは「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」(15)と必死の思いを伝えました。
まさにその時、この絶望の淵にいたマリアの魂は思いもかけず揺り起こされました。それはただ一言、復活の主が「マリア」と彼女の名前を呼ばれたことでありました(16)。
その懐かしい呼び声は彼女の魂の底まで響き渡り、たちまちマリアの心の目が開かれたのです。振り向きざまに思わず口から飛び出た「ラボニ」というヘブライ語の呼びかけは単なる「先生」という意味を超えたものであり、個人的な深い親しみが込められています。
良い羊飼いは自分の羊の名を呼び、羊はその声を知っているのです(10:3-4)。神の御子であるキリストは復活によって死の力を打ち破ったばかりでなく、ひとりの悲しむ女性の名を呼ぶことで心の悲しみを取り除き目の涙を拭い取ってくださいました。
「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい」(17)と主は驚くべき恩寵の言葉をマリアに委ねられました。主が捕らえられたとき恐怖のあまり主を見捨てて逃げ出した弟子たちであるにも関わらず、彼らを「兄弟たち」と親しく呼んでくださったのです。
ペトロに至っては主イエスの目の前にいながらも「そんな人は知らない」と三度も呪いながら否認したほどです。そしてこの朝、11人の弟子たちはユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけて震え上がっていたというのです(19)。
このようにご自分を見捨てて拒んだ弟子たちであったのに、復活の主は彼らの裏切りや失敗を一切責めることはありませんでした。彼らが悔い改めたり謝罪の言葉を口にしたりするよりはるか先に「兄弟たち」と和解の言葉を授けられました。
ここに宣言された全き赦しこそが十字架の死と三日目に復活されたキリストの福音がもたらす永遠の命の現われです。そしてキリストの赦しを受けた者はたとえ地上で死を味わうことがあっても、主御自身が天から降って来られる終わりの日には必ず復活するのです。
2.キリストの復活に立つ教会
主イエスの復活はマリアやペトロたちだけの個人的で内面的な体験で終わるものではありませんでした。コリントの信徒への手紙一15章において使徒パウロはこの復活信仰こそ教会にとって確かな土台であることを著しています。
書簡の中でパウロは「キリストは、聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」を「最も大切なこととして」として示しています(コリント一15:3-4)。そればかりか主はさらに「五百人以上もの兄弟たちに同時に」(同6)現れたのですから、キリストの復活について疑う余地もないほどです。
更にパウロは、自らのことを「月足らずで生まれたような、わたしにも現れてくださいました」(同8)と告白しています。かつて教会の迫害者でありナザレ人イエスとその一派を激しく憎んでいたパウロでさえも、復活の主に招かれたことによって完全に造り変えられました。
もしキリストが復活しなかったのならパウロの宣教はもちろんのこと、私たちの信仰もすべて無駄になってしまいます(同2)。そうであるならば私たちは今もなお罪の中に留まったままであり、死と滅びが人間の最終的な支配者であり続けるでしょう。
しかし、キリストは確かに復活されました。それゆえに大迫害者であったパウロをも造り変えた復活の力をもって、イエス・キリストが今も生きて私たちをも根底から新しく生まれ変わらせることができるのです。
まさにこの「復活の信仰」を唯一の基盤として立ち上がった人々が使徒たちであり、初代の教会でした。後にペトロとヨハネはユダヤの最高議会という迫害の脅威を前にしても、「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名による」(使徒4:10)と大胆に語る者へと変えられたのです。
彼らはもはや家の戸に鍵をかけて怯えていたような臆病者ではありませんでした。復活の主によって息を吹きかけられ、聖霊に満たされ、彼らは新しく生まれ変わったのです。
そして使徒たちによるキリストの復活の証言を信じた人々は心を一つにして祈り合い、主の死と復活を力強く宣べ伝える「教会」へと結び合わされます。21世紀の日本に生きる私たちも使徒たちの信仰を受け継ぐ教会として、同じ聖霊によって生きるキリストの体の肢とされました。
イエス・キリストの弟子とされた私たちは時として新しい環境や困難な課題を前にしては、マグダラのマリアのように涙を流し主の弟子たちのように恐れを抱くことがあります。しかし、死の力に打ち勝たれたキリストは私たちを決して見捨てることはないのです。
洗礼によってキリストと共に葬られた私たちは、キリストの復活によってすでに新しい命へと移されています。復活されたキリストが私たち一人ひとりの名を呼んで「わたしの兄弟よ、姉妹よ」と語りかけて悲しみの涙を拭ってくださるのですから、キリストの復活は今も後も永遠に変わることのない救いと希望の約束です。
<結び>
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(コリント一15:3-5)
失意のうちに涙を流すマグダラのマリアの名を呼ばれ、ご自分を見捨てた弟子たちをも「兄弟たち」と呼び、復活されたキリストは和解と赦しを宣言されました。主イエスが死の支配に対して完全に勝利をされたのですから、三日目に復活したことの事実によって教会は救いと永遠の命を告げ知らせるのです。
「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」(ヨハネ20:18)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)