マルコによる福音書2章1-12節「罪を赦す権威」
2026年2月8日
牧師 武石晃正
先日ある方が牧師館の彩りのためにと仰ってご自宅の庭から水仙と蝋梅の花を切って届けてくださいました。水仙と蝋梅は山茶花や梅と並んで雪中四友と呼ばれているそうで、早春にその花の匂うところは雪模様にも負けないしたたかさです。
福音書には度重なる困難にもめげずに思いを成し遂げた4人の友の姿が描かれております。その人たちの活躍ぶりを皮切りに、本日はマルコによる福音書を開き「罪を赦す権威」と題してキリストの権威と恵みを求めましょう。
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1.この人たちの信仰を見て
朗読の箇所は引き続きガリラヤ湖畔の町カファルナウムでの出来事であり、主イエスはこの町をご自身の宣教の拠点とされていました。イエスが「家におられる」(1)との噂が広まると、またたく間にその家の周りは黒山の人だかりとなりました。
「戸口の辺りまですきまもないほどになった」(2)ほどの人垣であり、人々はおそらくナザレのイエスの教えを聞くことよりも不思議な業を見ようとして殺到したのでしょう。 そこへ一人の病人が運ばれてまいりまして、「中風」とは脳卒中の後遺症などによる体の麻痺ですので自分の力では動くことも語ることもままならない重い状態でした。
この人の友人か家族であろう4人の男たちが彼を床に乗せてナザレのイエスがいるという家まで運んで来たのです。ところがその一帯は群衆に阻まれておりましたから、「病人のために道を開けてください」と叫んだとしても誰も通してはくれなかったようです。
普通の人であれば「今日は無理だ。また出直そう」と諦めるところでしょう。けれども彼らはなんと、「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」(4)というのです。
当時のパレスチナの家屋が外階段から屋根に上がれる構造になっていたとはいえ、これは何と驚くべき行動でしょうか。木の枝や土を固めて作られた屋根を掘り返すことができたとしても、そこはあくまでも他人様の家なのです。しかも下には主イエスがおられ、大勢の人がいます。人々がイエスの教えを聞いている最中に、天井から土ぼこりが落ちたとおもいきや突然ぽっかりと穴が開きました。
すると光が差し込む天井から人間一人が乗った寝床が降ろされてきたのです。常識的に考えれば非常に迷惑かつ乱暴な行為であり、後で弁償問題にもなりかねないことです。
けれども4人の男たちにとって、世間の常識や迷惑などよりもずっと大事なことが一つだけありました。それは彼らの大切な仲間である「中風の人」をナザレのイエスに会わせることでした。
噂に聞こえたあの方ならきっと治してくださる、この方以外に救いはないと彼らは考えたのでしょう。この世のことなど捨て置いてでも救い主キリストの前に出ようという一つの思いが彼らを突き動かし、主は二心のない彼らの思いを信仰として受け止められました。
2.罪を赦す癒し主キリスト
突然に天井から降りてきた病人と穴から顔をのぞかせている4人の男たちを見て、主イエスは怒りもしなければ迷惑がりもなさいませんでした。ただ「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(5)のです。
ここに二つの大きな驚きがあります。第一の驚きは主イエスが「その人たちの信仰」をご覧になったということであり、原文では「彼らの信仰」と単数形で記されています。
病に苦しんでいた中風の人その人自身は信仰を告白する言葉を持っていなかったかもしれませんが、彼を担いできた友人たちの信仰と熱意そして彼らの愛を主イエスはその人の信仰として受け止めてくださったのです。ともすれば私たちもまた病の床にあって祈る力さえ失せてしまうことがあり、あるいは私たちの愛する家族のうちにはまだ信仰を持てずにいる方もおられるでしょう。
そのようなとき私たちがその人を祈りという「床」に乗せて主イエスの御前に運び続けることができるなら、主は私たちの「一つの信仰」を見て御業を行ってくださいます。これは私たちにとって大きな慰めです。
第二の驚きは、主イエスの言葉であります。ここで主が語られたのは「病よ、癒されよ」ではなく、「子よ、あなたの罪は赦される」(5)でした。
思えば4人の友人たちも周りの人々も期待していたのは中風の人の「癒し」でありました。しかし主イエスが最初に与えられたのは彼らが求めていた癒しではなく、なんと「罪の赦し」でありました。
実は当時のユダヤ社会では「病気は罪の結果である」という考え方が根強くありました。もちろん全ての病気が個人の罪の直接的な結果ではないことは主イエスご自身も別の箇所で語っておられます(ヨハネ9:3)。
とはいえ聖書全体を通して見るならば、この世界に「死」と「苦しみ」が入ってきた根本的な原因は人間が主なる神から離れてしまったこと、すなわち「罪」によるのも事実です。ですから主イエスはお言葉一つで麻痺した手足を治すことができるとしても、そのもっと深いところにある根本的な癒しをなさろうとされました。
それは、この人の魂の奥底にある「罪の根」を取り除くことです。「自分は神に見捨てられた罪人だ」という絶望が、自分の心と体を縛ってしまうということが私たちにも起こりうるのです。
もしかするとこの人は長い闘病生活の中で自分の過去を悔やんでは神を恨み、あるいは自分を責め続けていたこともあったでしょう主イエスは彼の体の麻痺を解く前に、まず彼の心の麻痺すなわち魂の重荷を取り除く必要を知っておられました。
そこで主は父親が愛するわが子に優しく呼ばわるように「子よ」と彼に呼びかけられました。「罪が赦される」とは「あなたは神に見捨てられていない」との宣言であり、この罪の赦しこそがまことの癒しの始まりでした。
3.聖化から神癒へ
傍らで聞いていた律法学者たちは心の中で「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(7)とつぶやきました。たしかに罪とは主なる神に対する反逆ですので人間が勝手に「赦す」と言うことはできませんし、もしナザレのイエスがただの人間であったらなら律法学者たちが指摘するとおりこれは冒涜です。
けれども主イエスはご自身が罪を赦す権威を委ねられた救い主メシアであることを示されるために、「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(9)と彼らに問われました。罪の赦しは目で見たり手で触れたりできるものではないので誰にも検証できませんから、言葉の上だけで考えるなら「罪は赦される」と言う方が簡単なことです。
一方で「起きて歩け」と言うことは、もしその人が歩き出さなければナザレのイエスは嘘つきだということになってしまいます。だからこそ主イエスはご自分の権威を示すために中風の人に向かって「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11)と呼びかけて、目に見えない「罪の赦し」を律法学者たちの前で目に見える「癒し」として表されたのです。
その瞬間、運ばれてきたこの人の体に力がみなぎりました。彼は起き上がると今まで自分が寝かされていた床を自分の肩に担いで、力強く歩き出したのです。
ここからホーリネス信仰を受け継いでいる私たちは「四重の福音」のうち、特に「聖化(きよめ)」と「神癒(癒し)」の深い関係を読み取ることができます。「神癒」とは単なる病気を直す不思議な力のことではなく、魂の「聖化」が肉体にまで及んだ結果として与えられる救いの恵みであります。
罪とはいわば主なる神の命の流れを止めてしまう「詰まり」のようなものであり、私たちの心のうちに隠された罪や主なる神への不信や恐れなどを引き起こしています。誰かを赦せない思いあるいは不安といった「汚れ」があるとき、罪の根ともいえるものが私たちの魂を蝕んだ挙句に肉体の生命力をも弱めてしまうことさえあるのです。
しかし主イエスが「あなたの罪は赦される」と宣言して私たちの魂をきよめてくださるとき、その「詰まり」が取り除かれます。するとキリストの復活の命が私たちの魂に満ち溢れ、その溢れた命がこぼれ出て肉体という器にも注ぎ込まれるのです。
主の兄弟ヤコブもまたその手紙の中で「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」(ヤコブ5:16)と命じており、「罪の赦し」と「癒し」とを切っても切れない関係においています。心身が病や弱さを負っていると私たちはどうしても孤独になりがちなので。ヤコブは「教会の長老を招いて」あるいは「罪を告白し合い」と教会という共同体の中で自分の弱さを取り扱うよう命じています。
キリストの十字架による罪の贖いと赦しによって様々なわだかまりから解放され、主なる神の平安が私たちの心身を支配するようになるのです。魂のきよめである聖化が心と魂から満ち溢れることによって、私たちは肉体の回復としての神癒の恵みを受けるのです。
<結び>
「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」(ヤコブ5:16)
中風の人を担いだ4人は群衆に阻まれても諦めず、屋根を剥がして病人を主の前に吊り降ろしました。主はその熱い信仰と愛を見て、この人に「罪の赦し」を宣言すると彼は自ら床を担いで歩き出しました。
魂の根本的な癒しこそが真の救いであり、罪の赦しによる心のきよめがその人のうちで肉体の回復へと繋がるのです。私たちが互いに罪を告白し赦しを祈り求めるとき、罪を赦す権威によってキリストが聖化と神癒の恵みによって魂も肉体も救ってくださいます。
「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(マルコ2:9-10)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)