マルコによる福音書5章1–20節「自分の家族のもとに」
2026年6月14日
牧師 武石晃正
早いもので教会暦においては聖霊降臨節第4主日を迎えました。聖霊の注ぎに与った教会がそれぞれの場所に遣わされて福音を宣べ伝えることを覚える季節です。
キリストが十字架で流された尊い血によってすべての罪に対する代価が支払われ、この知らせを聞いて信じる者は誰でも罪の贖いを受けるのです。私たちはイエス・キリストの福音を誰から聞いて誰に伝えることでしょうか、本日はマルコによる福音書を開き「自分の家族のもとに」と題して主から受けた恵みと使命を確かめましょう。
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1.「向こう岸」へ渡った先
マルコによる福音書5章の冒頭には、「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」(1)とあります。この「一行」とは主イエスから「向こう岸に渡ろう」(4:35)と招かれ、ガリラヤ湖の激しい嵐の中を共に舟に乗った弟子たちのことです。
ユダヤ人である弟子たちにとってガリラヤ湖の「向こう岸」とはただの外国であるという意味だけではありませんでした。その地には異教の神々を拝んでいる人たちすなわち付き合いをしてはならない「異邦人」が住んでおり、実に「汚れた土地」であったのです。
弟子たちにとってその旅路は希望に満ちた新天地への船出というよりも、できれば足を運びたくないものであり、行先は避けて通りたい場所でありました。しかし主は自ら助けを求めることも湖を渡ってイエスのもとへ来ることも叶わない人々、深い暗闇の底にある魂をもお救いになろうとされました。
あえて弟子たちを伴って主イエスは墓場と豚の群れが広がる土地へと乗り込まれたのです。そして舟から上がられた主イエスの前に真っ先に現れたのは「汚れた霊に取りつかれた人」(2)でありました。
聖書は彼について「墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」(3)と記しています。人々は彼の驚異的な力を恐れて足枷や鎖で縛り上げようとしましたが、その度に鎖は引きちぎられてしまいました。
人間の力や権威ではこの人の魂を支配する深い闇を根本的に解決することはできなかったのです。彼は昼も夜も墓場や山で叫んでは石で自分の体を傷つけ続けていたというのですから(5)、心も体も痛み苦しんでいたことです。
生きていながらにして「墓場」という死の支配する領域に隔離されておりましたから、この人は神からも隣人からも見放されたような思いをしていたでしょう。そして彼は自らの家族からも断絶され、極限の孤独の中に置かれておりました。
この男の中に住み着いていた汚れた霊は主イエスの天上の権威を前にしてひれ伏すなり、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」(7)と大声で叫びました。「後生だから、苦しめないでほしい」との悲痛な叫びの奥底には、この人を恐れた者たちによって足枷や鎖で縛りあげられたことによる痛みや恐怖そして絶望が重なっていたのです。
「名は何というのか」(9)と主イエスがお尋ねになったとき、汚れた霊は「名はレギオン。大勢だから」と答えました。「レギオン」とは当時のローマ帝国の軍隊において五、六千人規模の部隊を指す言葉です。
別の箇所によれば、ただ汚れた霊を追い出しただけでは「自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く」(マタイ12:45)と主イエスは警告しています。それは人間の不完全な試みでは決して解き放つことのできない、死の支配そのものだからです。
主はこの汚れた霊どもを追い出す代わりに、近くの山でえさをあさっていた「二千匹ほどの豚の群れ」に入り込むことをお許しになりました(13)。すると、豚の群れは一斉に崖を下って湖へなだれ込み、溺死してしまいました。
二千匹もの豚を失うということは、その地域の所有者にとって計り知れない経済的損失であります。これほど大きな事件にでもならなければ墓に住み着いた男が癒されようと誰一人そのことを気にかけることもなかったでしょう。
とはいえ、この知らせを聞いて駆けつけた町や村の人々の反応は悲しいものでした。彼らはかつて叫び暴れていた男が「服を着、正気になって座っている」(15)という、人間の力を超えた救いの事実を目の当たりにしたはずです。
本来ならば死の陰の谷から連れ戻された隣人の回復を共に喜び神をほめたたえるべき場面です。ところが、彼らが抱いたのは喜びではなく「恐れ」でありました。
彼らは主イエスに対して何と「その地方から出て行ってもらいたい」(17)と懇願したのです。自分たちの経済的な安定や日常の秩序が脅かされることを恐れるあまり、真理であり命そのものである「いと高き神の子」を自らの都合によって排除してしまったのです。
2.自分の家族のもとに
主イエスが人々の要求を受け入れ再び舟に乗ろうとされたとき、汚れた霊から解放されて正気に戻った男が近づいてきました。そして彼は「一緒に行きたい」(18)と主に従うことを願い出ました。
かつて自分を忌み嫌い鎖で縛った人たちがいるゲラサ人の地方に留まることは、恐らくこの男にとって大きな不安と恐怖であったはずです。すべてを救ってくださったイエスと同じ舟に乗って自分のことを知る人がいない土地へ行くことこそ、彼にとって唯一の救いの保証であると思われたのも無理のないことです
けれども主はこの男の願いをお許しにならず、その代わりに彼にこう命じられたのです。「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」(19、聖書協会共同訳)
もちろん主イエスは彼の心の内をご存じでありますから決して意地悪をしたはずはありませんし、異邦人だからといって嫌ったわけでもないのです。舟に乗って遠くへ行くという個人的な安息への逃避を認めるのではなく、主は彼がかつて大声で叫んでは人々を悩ませた場所へと送り返されたのです。
これまで「汚れた霊」に支配され自らを傷つけていた男が「正気になって座っていた」姿は、まさに主が施してくださる全人的な「神癒」であり、内なる汚れを聖霊によって取り除く「聖化(きよめ)」の恵みの現われです。聖化された新しい命に生きる者は自分の力で変わるのではなく、キリストの愛に押し出されて家族や地域へと遣わされます。
また異邦人である彼が舟に乗ってついてきたところでユダヤの社会では受け入れてもらえず、大した役割を果たすこともできないでしょう。主イエスはこの男を突き放したのではなく最もふさわしい場所へと遣わすために心をかけてくださいました。
実にその結果としてこの男は「イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」(20)のです。最も親しいゆえに最も自分の弱さや醜さが知られていて関係の修復が難しい「家族」や「身内」のもとへ、主はゲラサ人の男に対して命じられたように私たちをも遣わされます。
その使命は自分が変わったことを最もよく知っている「身内の人」に対して、言葉だけでなく新しく造り変えられた生き方によって「主がしてくださった大きな業」を証しすることです。汚れた霊から救われた男がこの主の御言葉に従いデカポリス地方で主の御業を言い広めたことで「人々は皆一様に驚いた」(20)と、聖書はこの出来事を結んでいます。
一人の男を通して、キリストが悪霊の支配を打ち破る勝利者であることがデカポリス全体に広められました。再臨の主が文字通りこの世界に再び来られることを待ち望む私たちもまた、キリストが神の国を完全に完成してくださるという終末の希望を言い広めるために遣わされていくのです。
ゲラサ人の土地で墓地に住むしかなかった者がキリストの救いと癒しの恵みを受け、御言葉に従うことで豊かな実を結ぶ者へと変えられました。この大いなる恵みをその場で一緒に体験した弟子たちもまた主の十字架と復活の後に聖霊の満たしを受けて、全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えることになりました(マルコ16:15)。
最後にこの一連の出来事において、人々が押し寄せる前からそこにいた「成り行きを見ていた人たち」(16)について考えてみましょう。弟子たちが墓場からやってきた男の一件で周りにいる人々の存在を気にかけていなかったときにも、地域の人々は見ていないようでしっかりとイエスと弟子たちの言動を見つめていたのです。
教会とそこに結ばれている私たちの日常も同様です。私たちが意識していないときであっても、近隣の方々や職場の同僚は私たちがどのような姿勢で生きているか、その成り行きを見つめています。
舟で「向こう岸」へ渡った弟子たちは湖上の嵐よりも困難で未経験の状況に直面しました。米子教会も宣教第2世紀という「向こう岸」に渡ったのですから、たとえ嵐や突風よりも一層に困難や面倒事が立ちふさがることがあったとしても救い主であり癒し主であるキリストが私たちをそこへ遣わしておられることを知っています。
<結び>
「しかし、イエスはそれを許さないで、『自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい』」(マルコ5:19、聖書協会共同訳)
ガリラヤ湖を渡った異邦人の地で主イエスは悪霊と孤独に苦しむ男を救われました。ついて行くことを願う男に対し、イエスは家に帰り身内の者たちへ主の憐れみを知らせるように命じて送り返されました。
自分の過去を知る身内の元でキリストの救いを証しすることは時に照れくささやうしろめたさを伴います。主から受けた憐れみはあまりにも大きくて隠しようがないのですから、自分の家族のもとにそして近隣や職場という日常のなかで私たちはキリストによって新しく変えられた生き方を現わします。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)