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ローマの信徒への手紙8章12-17節「キリストと共同の相続人」

2026年5月31日 牧師 武石晃正  先週の主日はペンテコステの礼拝として主の聖霊が教会に降ったことを覚えて感謝をもって祝いました。主イエスは天に昇られる前に弟子たちに約束されたとおり、あのペンテコステの日に聖霊を豊かに注いでくださったのです。  その日から使徒たちを中心としたキリストの弟子たちは力強く主の十字架と復活を宣べ伝え始め、この地上にキリストの体である教会が息づき始めました。本日は聖霊降臨節第2主日にあたりローマの信徒への手紙を開いて、「キリストと共同の相続人」すなわち神の子とされた恵みと希望をしっかりと受け取りましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.罪の奴隷から神の子へ  使徒言行録を読みますと、あるときには一日に3000人もの大勢の人々が悔い改めて洗礼を受け弟子に加わったという目覚ましい出来事が記されています(使徒2:41)。神の霊が働き教会が力強く前進していく様子には、私たちも大きな希望を胸に抱くところです。  しかしながら、神の霊を受けた弟子たちはその後の歩みにおいてすべてのことを順調に何の葛藤もなく進めることができたのでしょうか。実はそうではなかったのです。  ガリラヤの地で主イエスの弟子とされた者たちをはじめ、福音書に記されている人々の多くはユダヤ人でありました。彼らは生まれながらにして契約の民イスラエルであり、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命6:4)との招きを受けた「神の民」であることがわかります。  彼らはキリストに出会う前から「律法」と呼ばれる掟を啓示として受けて生きてきた人々です。聖霊を受けてキリスト者となった後も、彼らの内面には長年培われてきた律法へのこだわりと新しく与えられた霊の自由との間で激しい葛藤が続いておりました。  生い立ちにおいて私たちはガリラヤの人々とは全く異なりますが、一歩礼拝堂の外に出るならば信仰の思いと現実の生活との間に葛藤や矛盾という難題を抱えるものです。生まれながらの性質と聖霊によって新しく生まれた事実との隔たりという点において、主の弟子たちが直面した課題が現代の日本に生きる私たちにも立ちはだかっているわけです。  使徒パウロがローマの信徒への手紙7章で説いているように、神が与えられた律法そのものは聖なるものであり善いものです。なぜなら神の律法は神の言葉であり、神の御心が示されてい...

使徒言行録2章1-13節「聖霊に満たされ」

2026年5月24日 牧師 武石晃正  ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステは十字架と復活の主イエスが天に昇られた後、地上に残された弟子たちへ約束どおり聖霊をお与えになったことの記念日です。  日本では田植えが終わる頃に冬小麦の収穫を迎えるように、聖書の時代にも五旬祭ともよばれるペンテコステの時期はパン種を入れて焼いた小麦のパンで収穫を喜ぶものでした。キリストの体としての「教会」という共同体が地上に産声を上げた記念日を祝いつつ、本日は使徒言行録を中心に「聖霊に満たされ」と題して救いの恵みと喜びを味わいましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.教会に吹き込まれた神の霊  使徒言行録1章を振り返りますと、十字架にかかり復活された主イエスは40日にわたって弟子たちへ神の国について語られました。しかし天に昇られようとしている主を前にして、弟子たちは「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(1:6)と、依然として目に見える現世的な王国の復興を期待して気がはやっておりました。  これに対し主イエスは時や時期は父なる神の権威にあるとした上で、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(1:8)と約束されました。主は地上における政治的な支配の回復ではなく、聖霊の降臨による内面からの真の「神の国」の到来を約束されたのです。  昇天からペンテコステまでの約10日間、弟子たちはいつ約束が成就するのか具体的な時期を知らないままエルサレムにある家の上の部屋で心を合わせてひたすらに祈りつつ待ち望みました(1:13)。この人間の計画を捨ててただ神の介入を信じて待つという姿勢は、現代の私たちが主の再臨を待ち望みつつ生きる歩みの原型となっています。  いよいよ「五旬祭の日が来て」(2;1)と記されるこの日は、ユダヤの三大祭りの一つである「七週祭」にあたります(申16:16)。過越祭から7週間が過ぎて50日目にあたるため、ギリシア語ではこの祭を五旬祭すなわちペンテコステと呼んでいます。  「過越祭と言われている除酵祭」(ルカ22:1)は大麦の収穫の時期である一方、五旬祭すなわち「七週祭」には小麦の収穫を迎えます(出34:22)。種なしパンを食べる期間から50日が経過し、日常生活に戻って新しいパン種が十分に発酵した頃合いでふっくらと焼いた新しい小麦のパンを捧...

ヨハネによる福音書17章1-13節「わたしはみもとに参ります」

 2026年5月17日 牧師 武石晃正  日野川の豊かな流れが大地を潤し、平地ばかりでなく山間に至るまで田植えの様子が広がっています。植え付けるまでにも心得のない者から見れば気が遠くなるほどの働きが積まれていることを覚えます。  当然ながら植え付けて終わりなのではなく、そこからさらに多くの苦労が重ねられた先に豊かな実りと収穫が待ち望まれるのです。救いの恵みは田植えに似たところがありまして、主なる神が信仰という苗を私たちの内に植え付けてくださるところから始まります。  ただキリストを信じる信仰によって救いの恵みをいただいただけでなく、信仰者はそこから豊かに実を結び、来るべき日の収穫を待つのです。本日はヨハネによる福音書を中心に「わたしはみもとに参ります」と題し、初穂であるキリストの復活と再臨の希望を確かめましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.御父のみもとへ帰るキリスト  復活されてからの40日間、イエス・キリストは弟子たちに姿を現して神の国について語られました(使徒1:3)。そして弟子たちが見つめる中で、オリーブ山から天へと昇っていかれました(同9)。  本日は復活節第7主日として間近に迫るペンテコステを覚えつつ、聖霊降臨を待ち望む思いを携えて礼拝を捧げています。この礼拝において私たちはヨハネによる福音書17章より主が十字架にかかられる前夜、弟子たちと共にされた最後の晩餐の席で捧げられた「大祭司の祈り」に思いを寄せるところです。  この祈りの中で主はこれから起こるご自身の受難と死、復活、そして天へ帰るために挙げられることを御父の前に数え上げながら告白しています。そして天を仰いで「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」(ヨハネ17:11)と弟子たちの耳にも届くように祈られました。  短くも力強い言葉には、私たちの信仰の根本的な真理が込められています。キリストが天のみもとに帰られるということは決して地上での使命から逃げ出すことでもなければ、弟子たちを置き去りにすることでもないのです。  そこにあるのは「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(5)という願いです。キリストがもともと天から遣わされたまことの神の御子であることが全世界に向けて明らかにされるため...

ヨハネによる福音書16章12-24節「真理の霊が来る」

2026年5月10日 牧師 武石晃正  5月の第2日曜日は「母の日」として教会ばかりでなく世の中の多くの人々も母に感謝をいたします。日本の法律の上では5月5日に「母に感謝する日」と定めがありますますので、母への感謝に感謝を重ねて覚えることであります。  一方で教会暦ではイースターの喜ばしい朝から数週間が経過し、私たちの歩みは復活節の第6主日を迎えました。本日はヨハネによる福音書を開き、「真理の霊が来る」と題して主の復活と再臨に思いを深めてまいりましょう。 (PDF版はこちら) 1.キリストを見なくなることによる悲しみ  朗読の箇所は主イエスが十字架に架かられる前夜、弟子たちと最後の食事を共にしながら語られた告別の説教の場面です。明日には十字架の死が迫っているという極限の状況の中で、主イエスは愛する弟子たちに向かっておもむろに語られました。  もしあなたが最も信頼している方から「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」(12)と打ち明けられたなら、一体どのような気持ちを抱くでしょうか。原文の言葉を直訳するならば、この一言には「あなたがたは今、それに耐えることができない」という重い響きがあるのです。  3年間あまりの年月を弟子たちはこれまですっと主イエスと寝食を共にし、数々の奇跡を目の当たりにしては神の国の福音を聞いてきました。しかし、いざ彼らの主が十字架につけられてこの地上から去っていこうとされるという現実を前にして、彼らの理解力と信仰は完全に限界に達していたことであります。  「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」(16)とのお言葉は、その真の意味が分からなくとも弟子たちの心に非常に深い絶望と悲しみの影を落とすのです。いつも頼りにしていた方が暴力と死によって彼らのもとから奪い去られ、もはや見えなくなってしまうというのです。  しかし、この「わたしを見なくなる」という耐え難い悲しみと喪失の経験は決して2000年前の弟子たちだけのものではないのです。私たち一人ひとりの歩みの中にも、まさに「今は耐えられない」と叫びたくなるような重圧や孤独、そして喪失という現実が横たわっています。  教会の交わりにおいて、長く共に信仰の歩みをしてきた敬愛する者たちを天へと見送ることが起こります。愛する信仰の友の姿がこの礼拝堂から見えなくなり...

ヨハネによる福音書15章1-11節「豊かに実を結ぶ」

2026年5月3日 牧師 武石晃正  復活節第5主日と教会暦で数えておりますが、この復活節とはキリストの復活を祝うイースターを起点としてペンテコステに至る50日の期間です。旧約の律法の書に照らすと民の贖いである過越祭から御言葉が与えられたことを覚える七週祭までの期間に重なります。  新年度を迎えて5週目でもあり、私たち米子教会は先週の主日礼拝の後に定期教会総会を主の前に捧げたところです。主に結ばれて一つとされた教会として私たち一人ひとりの歩みが確かなものとなるように、本日はヨハネによる福音書を開きつつ「豊かに実を結ぶ」と題して御言葉の恵みに浴しましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.豊かな実りと聖化  聖書の巻末に収められている略地図を開きますと、主イエス・キリストが歩まれた地が示されています。いわゆるパレスチナと呼ばれるその地域は旧約の時代から現代に至るまで国や民族の間での争いが絶えず、憎しみと悲しみが渦巻く場所です。  連日のように報じられる国際情勢のニュースを見るにつけ、人間の抱える罪の深さと真の平和への道のりの険しさを痛感するばかりです。しかし神の御子はそのような争いの真っただ中に生身の人間として来られました。  人となられた神はこの世において最も暗く、最も痛みの多い場所に身を置かれたのです。そこで神の国の福音を語り、罪のない方が十字架への道を進まれたのです。  朗読の箇所は主イエスが十字架に架けられる直前、弟子たちと共にされた過越の食事の場面です。迫り来る裏切りと死の影の中で、主イエスはご自身と後に残される信仰者たちとの決定的な結びつきについて「ぶどうの木と枝」のたとえをもって教えられました。  「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1)との短い宣言の中に信仰生活における極めて重要な真理が隠されています。ここで私たちはついぶどうの木の「枝」の状態やどれほど立派な実をつけるのかという成果のほうに気を取られがちですが、主がここで中心に置かれているのは「農夫」すなわちぶどう園の全体を管理する者である父なる神の絶対的な権威です。  ぶどうの木という台木もそこに接ぎ木されている枝も、すべては農夫の所有物です。農夫はどの枝を取り除きどの枝を残すか、栽培におけるすべての権能を握っています。  2節には「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな...

ヨハネによる福音書13章31-35節「神は愛です」

2026年4月26日 牧師 武石晃正  復活節第4主日を迎えました。主イエス・キリストが死の暗闇を打ち破り、三日目によみがえられたイースターの圧倒的な喜びから引き続いて、私たちは復活の主が共におられるという確かさの中を歩んでおります。  大牧者であり羊の門として主イエスが私たちを守ってくださることを覚えては、弱い羊のような私たちはこの方の声を聞き分けます。ご自身の命を懸けて守り導いてくださるキリストの深い慰めを胸に抱きつつ、本日はヨハネによる福音書を中心に「神は愛です」と題して主から賜った掟に心を注ぎましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.あなたがたも互いに愛し合いなさい  ヨハネによる福音書13章は主イエスが十字架に架けられる前夜、弟子たちと共にした最後の晩餐の場面です。この食卓で主は手ぬぐいを腰にまとい、弟子たちの汚れた足を自ら洗うという最も低く仕える姿で愛を示されました(13:5)。  その恵みに満ちた空間から一人の弟子が背を向け、イスカリオテのユダは裏切りのため満月がギラギラと照らす夜の都へと出て行きました(30)。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」(31)と、主イエスは残された弟子たちに向かって語り始められます。  「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」(31)と語られた時、弟子たちは彼らの主が明日にでもイスラエルの王となることを期待したでしょう。ところが愛する弟子の裏切りという人間的な目で見れば完全な絶望と敗北のどん底において、主イエスは「今や、栄光を受けた」と宣言されたことです。  ここで主イエスが語る「栄光」とは、ご自身の命を十字架に捧げ尽くすことによって全うされる神の底知れぬ愛の現れのことでありました。その十字架の栄光すなわちご自身の死を見据えながら、主は弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える」(34)と大切な掟を授けられたのです。  「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34)と、主は重ねて「互いに愛し合いなさい」と命じておられます。この主の言葉を私たちの現代の歩みの中でどのように受け止め生きるべきかを掘り下げてみましょう。  まず私たちはこの「互いに」という言葉について、無意識のうちにも人間社会の常識である「お互い様」の関係性を思い浮かべるので...

ヨハネによる福音書10章7-18節「大牧者がお見えになる」

2026年4月19日 牧師 武石晃正  復活節第3主日を迎えました。主イエス・キリストが死人のうちよりよみがえられたイースターの喜びから引き続き、主の復活の命と恵みにあずかる期間として歩んでおります。  新年度に入って3度目の主日であり、次週には私たち米子教会は2026年度を教会として主に捧げるべく定期教会総会を行おうとしています。本日はヨハネによる福音書を開いて「羊の門」また「良い羊飼い」にたとえられた主イエスご自身を覚えつつ、「大牧者がお見えになる」と題してキリストの体なる教会と信仰者自身の歩みについて思い巡らせましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.わたしは羊の門である  「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」(7)と主イエス・キリストはご自身について宣言されました。とはいえ福音書の読者である現代の日本に生きる私たちにとって、羊や羊飼いの姿を日常的に目にする機会はほとんどないことも事実です。  福音書に記されている時代の古代中東の社会では、羊飼いと羊の関係は文字通り命を繋ぐ最も身近で絶対的なものでありました。まず思い起こしていただきたいのは、羊という動物が皆様もご存知のように自らを守る牙も鋭い爪も持っていないということです。  力ばかりか視力も弱いため、羊たちは羊飼いが導かなければ豊かな牧草を見つけることも澄んだ水場にたどり着くこともできないのです。そして何より、荒野を徘徊する狼や羊を奪おうとする盗人たちから身を守るすべを羊は一切持っていないわけです。  聖書は私たち人間の真の姿をこの羊に例えています。現代社会は一見すると非常に豊かで安全で、高度な仕組みに守られているように見えますが、病や肉体の衰えなどの困難は狼のように突如として襲いかかってくるものです。  一歩礼拝堂の外に出て現実の生活に向き合えば、職場で毎日のようにのしかかる責任と重圧、誰にも理解されない心の奥底の深い孤独という困難が私たちを待ち受けています。これらはすべて私たちの命と魂を脅かす「狼」のようであり、実に私たちは自分自身の力では自分を守り切ることのできない弱い羊であることを思い知るところです。  古代の羊飼いたちは野営をする際に石を積み上げて囲いを作りました。扉のない囲いの入り口に羊飼い自身が自らの体を横たえて眠ることで、か弱い羊たちを守ります。  羊飼いの肉体そのものが「門」となる...