マルコによる福音書6章1–13節「神の言葉を聞こう」
2026年6月21日
牧師 武石晃正
私たちは日々そして主日ごとの礼拝において「神の言葉を聞く」という特権にあずかっています。共に祈り賛美をささげ、聖書を通して語られる主の御声に耳を傾けること、これこそが教会の命の源泉です。
しかし私たちが日々開くこの聖書は神の言葉を聞くことがいかに私たち自身の「人間の思い込み」によって阻まれやすいかという現実をも告げ知らせています。本日はマルコによる福音書を開き「神の言葉を聞こう」と題して主イエス・キリストの恵みを受け取る備えをいたしましょう。
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1.この人は大工ではないか
「イエスはそこを去って」(1)と話が切り出されておりまして、本日の聖書箇所はイエスが会堂長ヤイロの家で娘をよみがえらせた奇跡の後の出来事として記されています。マタイやルカによる福音書に照らすならば、ナザレのイエスの評判がガリラヤ地方である程度行きわたった時点のようです。
そこで主イエスは弟子たちを引き連れてご自身が育たれた故郷ナザレにお帰りになりました。ガリラヤの町々でそうであったようにナザレでもイエスのおられる家や会堂の戸口に人垣ができるかと思いきや、どうも様子が異なるようです。
ナザレの人々にとってイエスという男はつい最近まで自分たちと同じ土埃の中で汗を流していた身近な労働者の一人でありました。彼らにしてみればマリアの息子であるイエスは父ヨセフの仕事を継いだ大工に過ぎず、「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」(3)と名があげられている弟たちそして妹たちを養うために汗水を垂らしていた男に過ぎなかったのです。
この人々が特別に不信仰であったと言い切ることできるでしょうか。安息日に会堂へ集まっていたのですから、彼らは実にまじめなユダヤ人でありました。
伝統的な信仰を正しく守っているという強い自負を持っていたからこそ、安息日の会堂でマリアの息子イエスが語り始められたとき「多くの人々はそれを聞いて、驚いて」つぶやいたのです(2)。そして彼らの驚きは救い主への賛美や奇跡の人への称賛ではなく、「なぜあの大工のせがれが、あのような知恵や奇跡を行えるのだ」という疑いと侮蔑に満ちたものでありました。
人々はイエスについて「マリアの息子」と呼びました。それは父親の家系を重視するユダヤ社会にあって珍しいことでありますから、単にマリアの夫ヨセフがすでに世を去っていたというだけの意味ではないでしょう。
あるいは「この人のことはおむつの頃からよく知っている。私たちと同じ普通の、無学な人間に過ぎない」などと考えたことです。どのような理由があったとしてもこの人たちがイエスを「マリアの息子」と呼んでいることから、自分たちを教える教師ましてや神の権威を持つ預言者として受け入れることを頑なに拒んだことが示されます。
さて私たちはこのナザレの人々の姿を「大昔の愚かな人々」として笑うことができるでしょうか。現代の教会においても私たちにも神の言葉を自分自身の経験やこれまでの常識の範囲でしか理解できないという限界があります。
更には御言葉や信仰について世俗的な価値観や損得勘定という物差しで測っては、自らつまずきの石を足元に置いてしまうこともあるわけです。たとえば神学校を出たばかりの若い牧師が語る言葉に対して「私はあの牧師の若い頃の失敗を知っている」とか「彼はまだ人生経験が浅い」などとつぶやいては、語られる言葉の背後にある主イエスの権威そのものを軽んじてしまうことが起こるのです。
何もこれは信徒に限らず教師にも起こることでしょう。主が今ここに立てておられる若い教師がいたとしても、年齢を重ねた教師が自分のたった何十年かの古い経験によってその道をふさいでしまうこともあり得ます。
みな信仰者であり熱心な礼拝者ですから悪意や意地悪を向けたのではなく、ただ自分たちが積み上げてきたものを守りたいばかりに良かれと思ってのことなのです。しかしながらそこに働かれておられる主イエスが悪いはずはありませんから、神の言葉を人間の枠に閉じ込めようとする私たちの「思い込み」から多くの問題が教会の中に生じるのです。
5節には主イエスが故郷ナザレで、「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5)と記されています。主が何か気を悪くしてその働きを狭めたということではなく、人々が不信仰になり神の言葉を侮って恵みを求めようとしなかったので注がれるべき恵みを受け取らなかっただけなのです。
旧約の預言者イザヤが「主の手が短くて救えないのではない」(イザヤ59:1)と宣言したように、神の救いの力は常に満ちあふれています。もし私たちが教会や教師の働きの実りが小さいと感じることがあるならば、自らの不信仰によって神の奇跡と恵みの通り道を塞いでしまってはいないかと静かに自らを省みる機会でもあるわけです。
2.足の裏の埃を払い落としなさい
故郷ナザレの人々の不信仰に驚かれた主イエスはそこにとどまることなく、付近の村々を巡り歩いて神の言葉を説き続けられました(6)。そして十二人の弟子たちを呼び寄せ、彼らに「汚れた霊に対する権能を授け」(7)て二人一組で派遣されたのです。
その旅立ちに際して主が命じられたことはとても厳しいものでした。「杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」(8)、足の履物だけを身に着けて行きなさいというのです。
この指示は一見すると弟子たちに対して「自分たちの計画や備え、人間的な富に頼るのではなく、ただ神の備えと神の言葉の力だけにすべてを委ねて歩め」という徹底的な信仰を要求する教えです。しかしルカによる福音書によれば主は「働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(10:7)と言い添えておられますので、実は試されているのは弟子たちを迎え入れた町の人々のほうであるわけです。
ですから主イエスは遣わされた弟子たちを拒みその語る言葉に耳を傾けようとしない者たちに対しては、実に厳しい態度を取るように命じられました。「そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」(11)という命令です。
埃を払い落とすとは当時のユダヤの人々にとって、異邦人の地という「けがれた」ところから聖なる神の約束の地に戻る際に行う「絶縁」の象徴的な仕草でありました。ところが弟子たちが派遣されたのは異邦人の地ではなく、神の民イスラエルが住むガリラヤやユダヤの町々でした。
安息日を守っては儀式を行い、献げ物を捧げることを通して彼らはすでに「きよく、正しい神の民である」と確信していました。しかし神が遣わされた救い主を拒みその言葉に耳を貸さない者たちを契約の外にある異邦人と同様に扱うようにと、主は弟子たちに命じたのです。
弟子たちに委ねられた福音の言葉は「悔い改めさせるための宣教」でした。自らをきよいと信じ込み悔い改めの必要を全く感じていなかった「神の民」にとって、この言葉はナザレの人々同様につまずきを呼び起こすものでした。
たとえ血筋や世襲として神の民の系統を引く者であったとしても悔い改めを拒むならば、主から遣わされた者たちはその足の埃を払うのです。神の言葉に耳を傾けようとしないことは神の約束の恵みから自らを閉め出すことになるのだ、と主は警告されたのです。
他方で使徒言行録には異邦人でありながら神の言葉を聞こうとした者たちが数多く登場します。その一人がローマの地方総督のセルギウス・パウルスという人物です(使徒13:7)。
聡明な人物である彼は神の民ではない「異邦人」であるにも関わらず、神の言葉を聞こうとして自ら使徒たちを招きました。そして語られたキリストの言葉に非常に驚いて、信仰へと導かれたのです(使徒13:12)。
聖霊によって送り出された使徒パウロは聖霊に満たされて語り、主の道をゆがめる偽預言者を退けました。同じく聖霊によって語られる神の言葉はそれを受け入れて耳を傾ける者に救いをもたらしますから、使徒たちは行く先々の町や村で「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6:13)のです。
キリスト・イエスの十字架の死と3日目の復活を信じる者たちは父子聖霊の名によって洗礼を受け、神の子すなわち神の国に連なる者とされました。とはいえ私たちはその特権に甘んじ、自らの心の足元に不信仰という埃をため込んではいないでしょうか。
「自分は十分に信仰生活を送っている」「もう新しく学ぶべきことも、悔い改めるべきこともない」と思い込み、礼拝で語られる神の言葉をただの「知っているお話」として聞き流してはいないでしょうか。イエスのことを「大工ではないか」と見限った人々のように世俗の物差しで福音を値踏みするような生き方を、私たちは今日ここで捨てましょう。
主なる神が私たちのために遣わしてくださっている御言葉の権威の前にへりくだり、自らの頑なさに気づいて悔い改めます。神の国と神の義を第一に求めて神の言葉を聞こうとする者には、私たちの想像を遥かに超える豊かな恵みが付け加えられるのです。
<結び>
「この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。」(使徒13:7)
かつてナザレの人々はイエスを身近な大工という人間の枠に閉じ込め、不信仰ゆえに神の恵みを拒みました。他方で後に使徒が遣わされたローマ世界では異邦人である地方総督が御言葉に耳を傾けて救いに導かれました。
福音を拒む者に対して「足の裏の埃を払い落とす」厳しい態度を求められた主は、現代の私たちに対しても形式的な信仰に甘んじることを戒めて悔い改めを求めます。世俗の物差しを捨て去り悔い改めるならば、神の言葉を聞こうとする者たちを主が顧みてくださいます。
「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」(マルコ6:10-11)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)