マルコによる福音書8章14–21節「愛の実践を伴う信仰」

2026年7月5日
牧師 武石晃正

 7月に入り台風の影響を受けながらも、ちょうど今の日本の季節は梅雨の最中です。湿度も気温も高い時期を迎えていますから、私たちは食中毒を防ぐために正しい手洗いを励行し、ふきんやまな板を漂白剤に漬け込むなど徹底的な殺菌や消毒をいたします。
 聖書の時代には冷蔵庫や真空調理機などは当然ありませんので、ほんのわずかでも雑菌が残っていればそれがまたたく間に増殖して家全体を汚染してしまうこともあったでしょう。パンを焼くにも生の酵母でしたから、発酵を繰り返しながら使い続けることはとても気を付けなければならないものでした。

 神の御前にきよく誠実でありたいと思っても、人の前で自分をよく見せたいという偽善や虚栄がほんの少しあるだけで生き方全体に膨らんでしまうこともあるものです。本日はマルコによる福音書を開き、「愛の実践を伴う信仰」と題してイエス・キリストの恵みの言葉に思いを深めましょう。


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1.まだ、分からないのか

 マルコによる福音書8章には主が7つのパンをもって4000人もの人々の空腹を満たし、7つの籠にいっぱいのパン屑を弟子たちに賜った出来事が記されています(1-10)。神のわざの品定めをしようと「天からのしるし」を求める者たちに背を向けて、主イエスは再び舟に乗って向こう岸へと去っていかれました(11-13)。
 ここから本日の朗読箇所が始まり、一同が舟に乗って移動している場面です。弟子たちは重大な失敗に気づき、先ほどまで7つの籠にいっぱいあったはずのパンが一体どこへ忘れてきてしまったのか見当たらないのです。

 とにかく「舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」(14)というのですから、この時の弟子たちの落ち着かない様子は並大抵のものではなかったでしょう。とはいえ彼らは自分たちだけで議論したり解決したりしようとするあまり、神の子である主イエスを蚊帳の外に追いやってしまったのでした。
 本来であればたった一つであったとしても手のうちにあるパンを差し出して「主よ、パンが一つあります」と委ねればよかったのです。弟子たちは先生を煩わせてはならないと思ったのか怒らせてしまったと不安を覚えたのか、たった今ここで起こっている困難を正直に主の前に明かすことができませんでした。

 そこで彼らの思いを見透かされた主イエスは弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15)とおっしゃいました。主はここでパンそのものについて語られたのではなく、「パン種」という隠喩を用いて彼らの心の内にある危機を説いておられたのです。
 不安や疑いの感情は速やかに人々の間に共有され、不信仰という「ファリサイ派の人々のパン種」が弟子たち全体に膨らみました。多くの人々の空腹と7つの籠をいっぱいになるまでパンで満たしてくださった主が今ここにおられるというのに、まるで古くて傷んだ「パン種」は主への感謝や希望をすっかり台無しにしてしまうのです。

 主のお言葉の真意を尋ねようともせず、弟子たちは「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ」(16)と議論を続けています。言い換えるならば「ほら、お前がパンを忘れたから主がご立腹だ」「いや、お前の責任だ」と責任を押し付け合っている格好です。
 主イエスはこの弟子たちの心の頑なさを突かれました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。」(17)

 彼らは理解できず悟らないことを脇に押しやっていたために「目があっても見えない」「耳があっても聞こえない」「覚えていない」状態に陥っていたのです(18)。実に聖書には「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10:17)とはっきり書かれています。
 キリストの言葉に真摯に耳を傾けるよりも、目に見えるパンの数が大事なのでしょうか。自分自身の不信仰を覆い隠すために神に対して絶えず追加の「しるし」や証明を要求し続けるなら、私たちは信仰者だと言いながらも神を値踏みしようとすることになります。

 あるいは主イエスへの信仰だけでは足りないと感じて自分の安心感を別の何かで担保しようとするならば、それは神を試すことと同じです。すでに主の恵みは十分に与えられているのに不安や疑いにかられること、これこそ主イエスが最も気を付けなければならないとおっしゃった「パン種」の正体です。


2.愛の実践を伴う信仰

 パン種とは人々の生活に必要不可欠なものでありながらも、ユダヤの律法によれば年に一度、除酵祭の時期には家々から徹底的に取り除かれなければならないものでした(出エジプト12:19,13:7)。もし古くて傷んだパン種を少しでも残してしまうならば、それがほんの僅かであっても新しく練った粉全体を台無しにしてしまうからです。
たとえとして主イエスが言われている「パン種」とは徹底的に取り除かなければ福音の真理を根底から台無しにしてしまう性質を指しています。腐敗して酸っぱくなってしまったような「ファリサイ派の人々のパン種」は「偽善」や「行いによる義」の類です。

 彼らの語る教えは立派でありましたが、そこには愛の行いが伴っていませんでした。ある個所において主イエスは彼らについて「重い荷物をまとめて人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23:4)と神への愛も人への愛も伴っていないことを厳しく非難されました。
 また「ヘロデのパン種」とは、神の言葉を知識としては喜びながらも自らの体裁や地位を守るためにそれを裏切る不真実さであります。ヘロデ王は洗礼者ヨハネの言葉を「正しい聖なる人であることを知って」「喜んで耳を傾けていた」(6:20)にも関わらず、宴席で自分の権力と保身のために心を痛めながらもヨハネの首をはねさせた者でした。

 ファリサイ派の人々にせよヘロデにせよ、言葉や知識としては大層立派なものを持っていました。けれどもその内実は神の前にも人の前にも、真実な愛すなわち誠実さや正直さが伴わない者たちであったのです。
 その一方で弟子たちは主イエスと3年有余の年月を共に過ごし、寝食を共にしたという特権的な事実の中にありました。もしその「一緒にいた」という出来事や自分たちが奇跡の場に居合わせたという「実績」だけを彼らの確信の基としたならば、信仰は一体どうなってしまうでしょうか。

 恐らく主から聞いた言葉や出来事を自分の都合のよいように取捨選択し、彼らは自己流の解釈を施してキリストにある真実を歪めてしまいます。ほんの少しでも主イエスの教えが自己中心的な思いによって歪められてしまったなら、その「パン種」はたちまち全体を膨らませ、福音を全く別物の「自分たちのための宗教」へと変貌させてしまうのです。
 そうなってしまっては人々に指一本貸そうともしなかったファリサイ派の人々や、神の言葉を聞くだけ聞いて実を結ばなかったヘロデ王と何ら変わらないでしょう。むしろイエスを直接に見聞きしたという強固な実績があるだけに、弟子たちのほうが一層にたちの悪いことであるとさえ言えるのです。

 「わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき」「七つのパンを四千人に裂いたときには」と恵みを数えるよう求められ、弟子たちに答えることができたのは「十二です」「七つです」と自分たちが集めた籠の数だけでありました(19-20)。五千人や四千人を養われた主イエスその方が共におられるということ自体が驚くべき神の恵みであるのに、彼らは同様と不安のあまりこの事実さえも見落としてしまっていたのです。
 パンがないという目先の物理的な不足に弟子たちは心を奪われてしまいました。主が行われた恵みのわざが単なる衝撃的な出来事に終わることのないように、今ここにおられるキリストとはどなたであるのかを主は弟子たちの心に思い起こさせようとされたのです。

 第一世紀の教会の中にはキリストの臨在という恵みがあるにもかかわらず、自分の肉的な実績や割礼という人間の手段によって救いを補強しようとする不信仰が忍び込んで広がりました。使徒パウロはこのような不信仰こそ「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」(ガラテヤ5:9)ものであると指摘しました。
 私たちはパンがないといっては不安になり、あるいは自分の手で割礼を行って自己を誇ろうとするような弱さを抱えています。しかしキリストの十字架のみを誇りキリストの臨在という恵みで満たされるとき、私たちは自らを縛る不信仰から解き放たれるのです。

 そして私たちは聖霊のきよめによって「愛の実践を伴う信仰」へと力強く歩み出せます。パウロが「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)と言うとおりです。
 まことの信仰とは言葉や知識を蓄えることでも過去の成功体験に安住することでもなく、神によって結び合わされた兄弟姉妹を愛することに現れます。自らは指一本も触れようとしないような「ファリサイ派の人々のパン種」を取り除き、隣人に対してキリストからいただいた無条件の愛を具体的に示してゆくことが「愛の実践を伴う信仰」です。

 救い主キリストの招きを受けた私たちは古い自我を十字架につけ、聖霊のきよめと満たしをいただきましょう。主は私たちの内からファリサイ派の人々やヘロデのパン種を取り除き、御言葉に従う誠実な愛のわざに励む者へと造り変えてくださいます。



<結び>

 「そのとき、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた。」(マルコ8:15)

 弟子たちはパンを忘れてうろたえ、主の警告の真意を悟らずに責任を押し付け合いました。主が戒められた「ファリサイ派の人々やヘロデのパン種」とは、自らの保身によって神の言葉を歪め、愛の行いが伴わない不真実さのことです。
 今ここに主イエスが共におられるという十分な恵みの事実に信頼し、目先の不足への不安から生じる自我を捨てて御言葉にへりくだりましょう。私たちはキリストの十字架の血によって救いときよめの恵みに生かされて、愛の実践を伴う信仰を主の再び来られる日まで人々の前に輝かせます。

 「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤ5:6)

(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)


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