マルコによる福音書8章22–26節「はっきり見えるように」
2026年7月12日
牧師 武石晃正
1909年7月11日を創立とする米子教会は117周年を数えます。昨年度は数年の遅れを取り返して創立百十周年記念誌を発刊し、草創期より礼拝場所を移しながらも主に仕え福音を宣べ伝えてきた教会を主がいかに恵みをもって導いてくださったのかを覚えました。
米子教会が現在の状態に至るまでに117年も要したこと、ことさらに傷や痛みの回復には主の恵みが注がれても長い年月を要したことです。独り子である神キリストが私たち人間と同じ姿で世にお生まれになり人間の成長や回復には時間がかかることを味わってくださったので、忍耐をもって教会とともに時間をかけて歩んでくださいました。
「私たちは今までこのようにやってきた」と人の営みを誇るなら、パン屑でいっぱいの籠を数えるだけだった弟子たちのように「目があっても見えない」者になるでしょう。本日はマルコによる福音書を開き、「はっきり見えるように」と題して私たちの弱さに寄り添われるキリストの恵みに思いを向けましょう。
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1.人が見えます。木のようです
舟に乗った主イエスと弟子たちの一行がベトサイダに着いたところへ人々が一人の盲人を連れてきて、「触れていただきたいと願った」(22)ところから本日の箇所の話が始まります。当時のユダヤ社会では目が見えないことは本人あるいは親が犯した「罪の結果」であると考えられておりましたので、それだけで社会的に差別を受けておりました(ヨハネ9:2)。
したがって目の見えない人を癒すという行為は単に視力を回復させるという癒しのわざであるばかりでなく、旧約の預言者によれば罪を完全に赦す権威をもっている救い主のしるしです(イザヤ35:5-6)。しかし、主はその特別なみわざを人々に見せるためのしるしとして行うことをせず、この盲人の手を取り「村の外に連れ出し」(23)たのです。
奇跡を見世物にすることなく、主はここに苦しんでいる一人の人と向き合って親密な交わりをもってくださいました。村の外までこの人を連れて出たところで主は彼の目に唾をつけて両手を置かれました(23)。
唾をつけるという当時の民間療法とも共通する方法は、主イエスが高い天から一方的に命令を下すのではなく私たち人間と同じ地平に立っておられたことの証しです。神である方が人間の苦しみに自ら触れてくださり、そして「何か見えるか」とお尋ねになりました(23)。
主に触れていただくまではまさか目が開かれるなどとは思いもよらなかったことでしょう。この人は人々に連れてこられるままイエスのもとへやってきたわけですから、この人にできたことは主が連れ出されるままに村の外へと従うまでのことでした。
神の招きを受けて、それを聞いて応えた者は主から恵みを受けるのです。唾をつけられるまま両手を置かれるまま主にすべてを委ねたとき、癒しの恵みがこの人に注がれてたちまち目が開かれました。
手を置かれたこの人は「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」(24)と目を凝らして答えました。ただし、光は戻ったものの彼の視界は極めて曖昧であり、物体の輪郭を正確に捉えることができておりませんでした。
目は開かれてもまだはっきりとは見えていないという事実をこの人は認めて、正直に主イエスに対して告白しました。私たちがキリストを信じる信仰によって神の前に義とされた者であっても、取り除かれなければならない「パン種」や罪の根が残っていることを主の前に告白することに通じます。
何より私を完全にきよめて癒すことができる救い主であると信じるからこそ、この方の前に自分の現在の状態を包み隠さず告白して委ねることができるのです。そして主イエスもまたこの人が本当に「はっきりと見えるように」なることを願っておられました。
「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」(25)と主の恵みが完全に現わされました。主は癒された人を人々の前にさらすようなことはなさらず、本来あるべき場所すなわち「その人を家に帰された」(26)のでした。
2.はっきりと見えるように
さて主イエスが盲人の目に再び両手を当てられたとき、そこには驚くべき光景が広がっていました。両手を当てられているということは、盲人のすぐ目の前に主イエスご自身の御顔があったということです。
彼が開かれた目で最初に見たものは何だったでしょう、それこそが彼を暗闇から救い出してくださった救い主イエス・キリストのまなざしであり、愛に満ちた御顔でありました。
この「はっきりと見えるようになった」出来事は単なる肉体的な視力の回復に留まらず、キリストがどなたであるかを正しく見極めることに通じます。すなわちそれは信仰の確立であり、米子教会が立っているホーリネス信仰における聖化の恵みに至ります。
信仰者はキリストの十字架と復活による救いを信じる信仰によって父なる神に罪を赦され、神の子とされる「新生」の恵みにあずかります。しかし新生の恵みを受け霊的な目が開かれた後も、人間の内には自己中心的な古い自我が根深く残されているために主の御顔をはっきりと見ることはできないものです。
主なるキリストの御顔を仰いで歩むためには「人が見えます。木のようです」と答えた人のように、私たち自身がはっきりと見えていないことを知る必要があります。「以前よりは良くなったので私はこれで十分です」と満足して帰ってしまったら、たとえ主イエスのみわざが完全だとしてもその恵みを受け取り損ねてしまうのです。
また、主イエスの傍らにいた弟子たちと言えば、ベトサイダに到着するまでの舟の中で「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」(18)と主からその信仰を問われたばかりの者たちです。彼らは自分たちが集めたパン屑の籠を数えることはできましたが、目の前におられる方が神の御子であるということが見えなくなっていたのです。
主イエスはこの盲人の癒やしにおける全ての過程を、あえて弟子たちだけの目の前で行われました。そこには「目があっても見えない」弟子たちが心の目を開かれることを望んでおられる主の深い御愛がありました。
後に弟子たちは彼らの目の前で主イエスが捕らえられ、そしてある弟子たちはこの方が大祭司の庭で不当な裁きを受ける姿を目撃します。主は更に異邦人へ引き渡され、こぶしや鞭で傷めつけられ、ついには十字架刑に処されました。
多くの者たちがナザレのイエスを取り囲み、乱暴な言葉をかけては侮辱しました。大勢の者たちがこの方を見ていたのに、誰の目にもこの方が救い主であるとは見えていませんでした。
弟子たちでさえ彼らの主が十字架につけられ、死んで葬られたと聞いては、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて身をひそめていたほどです(ヨハネ20:19)。彼らの中には主イエスの弟子となる前に洗礼者ヨハネに師事していた者たちがおりますので、この者たちは3年ほど前に主イエスの洗礼の際に天が開けて聖霊が降って来るとともに「あなたはわたしの愛する子」と呼ぶ天の父の声を聞いているはずです(ヨハネ1:29-34)。
とはいえ弟子たちはこの方を全く信じていなかったということでしょうか。「見よ、神の小羊だ」(ヨハネ1:36)と洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従ったので弟子となった者がいます。
天からの「あなたはわたしの愛する子」という声を聞いた者、そして「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と告白した者もいます。初めからすべてを理解していたことではなくとも招きの声を聞いて従ったので、その時その時に主は彼らの心の目を開いてくださいました。
彼らが努力して徐々に主イエスのことを理解していったというのであれば、信仰でも恵みでもなく人間の努力ということになります。けれども頑なで心の目が塞がれていたような弟子たちに主のほうから御声をかけて、ご自分を現わしてくださったのです。
復活の朝、すなわち主が葬られて3日目も弟子たちはまだ失意のうちにあり、墓の中に亜麻布だけがあることを見ても信じられずにおりました。けれども主イエスのほうから弟子たちに現れ、彼らの目を開いてくださいました。
信仰の目が開かれる段階的な過程において、主イエスが私たちのためにご自身の体である「教会」を備えてくださいました。使徒パウロがその愛弟子へ「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」(テモテ一3:15)と書き送っています。
ベトサイダにいた盲人は主の招きに従って目が開かれ、ぼんやり見えた目に再び主の手を置いていただいて「はっきりと見えるように」なりました。他方で弟子たちは後によみがえられた主が天より送られた聖霊によって力を受け、教会は「キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ」「栄光のうちに上げられた」 (テモテ一3:16)と力強く証しするものとなりました。
キリストの救いの招きを受けて信仰へと導かれた私たちもまた、霊によって新しく生まれたとはいえ心の目は塞がっていないでしょうか。イエス・キリストは今も私たちの弱さに寄り添って招いてくださるのですから、ご自分に従う者たちが主の愛に満ちた御顔を仰ぎ見ることができるようにと聖化の恵みのうちに造り変えてくださいます。
<結び>
「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」(マルコ8:25)
創立117年を迎えた私たちの教会が傷や痛みの回復に長い年月を要したように、主はベトサイダの盲人をあえて段階的に癒やされました。「人が木のようだ」と不完全な現状を正直に告白した時、主は再度手を当てて御顔をはっきりと見えるようにされました。
新生の恵みに与かった私たちも古い自我により主がよく見えなくなることがあります。しかし聖霊なる神が聖化の歩みにおいて内側からきよめてくださるので、はっきりと見えるようになった魂は再臨の主を喜びのうちに仰ぎ見るのです。
「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」(詩編34:9)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)