マルコによる福音書10章13-16節「神の国を受け入れる」

2026年8月9日
牧師 武石晃正

 米子教会が属しておりますホーリネスの群は例年であれば8月になるとユースバイブルキャンプを首都圏と近畿のブロックそれぞれで行っております。今年はホーリネスの群結成80周年の記念事業として全国から奉仕者と参加者を募り、長野県にあります国立信州高遠青少年自然の家を会場に行われました。
 しばしば日常生活を離れて聖書の言葉に浴しては御霊の豊かな導きに思いを深めることも大切であり、その一方で日々の生活の中で御言葉を実践することにより私たちは信仰を成長させていただくものです。欠けだらけの私たちに期待してくださる主なる神の限りない愛を覚えつつ、本日はマルコによる福音書を中心に「神の国を受け入れる」と題して主の御愛によって形作られる教会の交わりについて思い巡らせてまいりましょう。

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1.子供のように神の国を受け入れる

 マルコによる福音書10章には非常に印象的な場面が記されており、人々が主イエスに触れていただくために子供たちを連れてきた時のことです。ところが子供たちを連れてきた人々を見た弟子たちは、なんとその人々を厳しく叱りつけたというのです(13)。
 現代を生きる私たちの感覚からすれば、なぜ弟子たちがわざわざ子供を連れてきた親たちを叱らなければならなかったのか不思議に思われるところです。しかし主イエスが歩まれた第一世紀のパレスチナの社会において、「子供」という存在は必ずしも「純真で、手厚く保護されるべき尊い存在」としては扱われてはおりませんでした。

 当時の社会において子供という存在は労働力を持たず大人に完全に依存しなければ生きられないため、社会的にも経済的にも価値が低いと見なされていました。また、律法の知識を持たないことから宗教的にも「取るに足らぬ者」とされていたのです。
 弟子たちとしても決して悪気があっての言動ではなかったことでしょう。彼らの主は偉大な教えを語っては多くの人々の病を癒すことで多忙を極めておりましたから、その貴重な時間を社会的価値のない子供たちのために割くことわけにいかないという彼らなりの配慮であると推して知るところです。

 とはいえ、主イエスはその弟子たちの様子をご覧になると激しく憤られました。聖書の中で、主イエスがこれほどまでに感情を露わにして憤られた場面は数えるばかりです。
 主は「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(14)と言われました。そして、子供たちをその両腕に抱き上げ、手を置いて祝福してくださったのです(16)。

 ここで主イエスが示されたのは、当時の人間社会の価値観を根底から覆すような神の国の真理です。神の国はこの世の価値観の上に立っているのでもなければ、業績を上げた者や社会的に力のある者、いわゆる立派な大人のためにあるのでもないということです。
 自分の力では何も獲得することができずただ助けを必要としている者のために神の国は開かれています。あくまでも「このような者たちのもの」(14)であって子供ならだれでも入れるとまでは言われておらず、むしろ「子供のように」取るに足らぬ無力な者のためにあると主がおっしゃるところです。

 「子供のように神の国を受け入れる人」(15)とは必ずしも純真無垢な心を持つ人ということではないでしょう。そして人は成人してもなお、心の中には様々な罪や傲慢さを抱えているのが実態です。
 赤ん坊がただ泣いて親の助けを求めることしかできないように、自らの無力さを正直に認めてただ主なる神の憐れみに頼り切るということが求められます。赤子は人からどう見られるかという評価にとらわれず親を求めて大声で泣くわけですから、同じように主なる神をしつこいほどに呼び求める者のために神の国が豊かに臨むということです。

 社会で最も小さくされた者たちを両腕に抱きしめることで、主イエスは神の愛がどれほど深いものであるかをお示しになりました。私たちは日常の中で、自分の生産性や他者からの評価、あるいは「立派な大人であらねばならない」という世の業績主義に縛られ、自力で自分の居場所を獲得しようと疲れ果てています。
 しかし主イエスが抱き上げてくださるのは、自力では何もできない乳飲み子のような私たち自身です。人間の側の条件によらない無条件の恵みとしてキリストの救いを受けたとき、私たちは皆キリストの開かれた両腕の中に迎え入れられた神の国の子供であるのです。


2.互いに仕え合いなさい

 全くの無代価の恵みによって私たちは自らの力ではなく神の国を受け入れたのですから、地上にいながら神の国の民としてどのように生きていくべきかが問われます。神の国の民とされた者が互いに受け入れ合い愛し合うことの実践について、使徒パウロの手紙から読み解いてまいりましょう。
 エフェソの信徒への手紙には非常に具体的で深い真理が記されており、そこでパウロは「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(エフェソ5:21)と述べています。仕え合うとは相手を自分より優れた者として尊び、受け入れ合うということです。

 仕え合うことの具体的な場として、パウロは家庭における夫婦の関係や親子の関係を取り上げられています。とはいえ当時のローマ社会は現代の日本とは比べ物にならないほどに、厳格な家父長制の社会でありました。
 父親や夫が絶対的な権力を持ち、妻や子供はその法的な所有物のように扱われるのが常識でした。強い者が弱い者を支配することが、社会の秩序だと考えられていたのです。

 それにもかかわらず、パウロはここで当時の社会の常識を打ち破る全く新しい生き方を提示したのです。それは権力や力による支配関係ではなく、キリストの愛を土台とした「互いに仕え合いなさい」という関係です。
 特に注目すべきことは「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自身をお与えになったように、妻を愛しなさい」(エフェソ5:25)という言葉です。ここで求められている愛は相手の魅力に惹かれるといった単なる感情的な好意のことではなく、キリストが自らの命を十字架に投げ打ってまで教会を愛されたような徹底的な自己犠牲による愛です。

 実にパウロは「この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」(32)と語るのです。つまり夫が妻を愛し互いに敬い合うという家庭や教会における実践はただの道徳的な教えに留まるものではないからです。
 実にそれはキリストがどれほど深くこの教会を愛してくださったかを示すものであり、私たちの日常の交わりを通して目に見える形で現される福音の真髄であります。私たちが霊的に全く無力な「子供」としてキリストに抱き上げられ、受け入れられたように、実際の家庭や教会の交わりにおいても自らの力や立場を誇ることは許されないのです。

 そこで使徒は「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」(エフェソ6:4)と命じています。神の御前に無力な者として赦された私たちは教会という信仰の共同体や家庭において、強い者が弱い者を力で支配するのではなく主が私たちになさったように愛と寛容をもって互いを尊び、育てるように求められます。
 けれども私たちは弱い者でありますから、人間の意志や自らの力だけではこれほどの全き愛を実践し続けることは非常に困難なことです。まるで何度も主の御心を知らされながらも「だれがいちばん偉いか」(マルコ9:34)と争いあった弟子たちのように、私たちもまた他者を裁いては自分を高くしようとする誤りを繰り返してしまいます。

 自分にとって身近な隣人や家族であればあるほど、相手の欠点に憤り支配しようとしてしまうのが私たちの頑なな古い現実です。聖書が示す「自己犠牲的な愛」という高き目当てを見上げるとき、私たちは到底そこに達し得ない自分自身に直面しては罪責感に打ちのめされることもあるでしょう。
 けれどもホーリネスの信仰が告白するのは、神の命令は私たちの努力によってではなく聖霊の内実を伴う「きよめ」の働きによってこそ成就するという恵みの約束です。愛せない自分の限界を正直に主の前に差し出して全き献身をもって主に委ねるとき、聖霊が私たちのうちに主の愛の性質を注ぎ込み、私たちを内側から愛へと造り変えてくださるのです。

 人間がどれほど失敗し、傷ついては見捨てられたような絶望的な状況にあったとしても、創造主なる神は決してその手を離すことをなさらないのです。この決して見捨てられることのない圧倒的な愛の絆があるからこそ、私たちは安心して自らの弱さを誇り、ふたたび「子供のように」神の国を受け入れることができるのです。
 振り返れば私たちは本来であれば主なる神の前に出る資格のない罪人にすぎない者でありました。キリストが十字架の血潮という計り知れない代価を払って私たちを恵みの中に招き入れてくださったのです。

 だからこそキリストご自身が「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(15)と人々に聞こえるように弟子たちへ説かれました。そして、自分自身がキリストの豊かな愛によって完全に受け入れられていることを魂の底から知るからこそ、隣人の弱さをも赦すことができる者と変えられます。
 私たち自身の力や努力によるのではなく聖霊が神の愛を私たちのうちに満たしてくださるので、私たちは古い性質をきよめられて互いに仕え合い愛し合う人へと造り変えられるのです。


<結び>

 「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ5:26-27)

 主イエスは、自らの無力さを認め、ただ神の憐れみに頼る「子供のような者」に神の国は開かれていると教えられます。私たちは自力で救いを得られませんが、キリストの無条件の愛に受け入れられ、神の国の民とされました。
 十字架で贖われた私たちは家庭や教会で互いに仕え合い、愛し合う歩みへ導かれましょう。御言葉と聖霊によってきよめられ、神の国を受け入れる人として主の再臨の日まで愛のわざに励むのです。

 「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:15)

(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)


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