マルコによる福音書10章46-52節「新しい人を身に着け」
2026年8月16日
牧師 武石晃正
聖霊降臨節第13主日の礼拝を迎えました。台風が迫る季節におきましても主の恵みのうちに御堂に会し、主日礼拝を献げることができます幸いを主に感謝いたします。
突然ですが、皆さんはこれまでの人生をやり直したいと思ったことはおありでしょうか。「全くない」と胸を張ることができるなら幸いでありますが、自らの失敗や愚かさを振り返っては思わずため息をつくこともありましょう。
洗礼を受け長年教会に通っていても、私たちの心の内側にはなお不信仰を象徴する古い性質、すなわち「異邦人と同じ」虚しさや「滅びに向かっている古い人」の罪の根が潜んでいるものです。本日はマルコによる福音書を開き、「新しい人を身に着け」と題して主イエスによる全き救いと全ききよめの恵みを求めましょう。
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1.あなたの信仰があなたを救った
朗読いたしましたマルコによる福音書10章の場面は主イエスがガリラヤからヨルダン川沿いの街道を通ってエルサレムの十字架へと進まれる途上、受難前の最後の滞在地となったエリコの町に足を運ばれたときのことです。エリコは旧約においてモーセの従者ヨシュアが約束の地カナンに入った際に最初に勝ち取ったことで知られる歴史ある町であり(ヨシュア記6章)、福音書の時代においても多くの人々で賑わっていました。
ここで重要なのは直前の場面でイエスの一番弟子であるヤコブとヨハネが栄光の座を争い、主の十字架の道を理解できない「霊的な盲目」におちいっていたことです。そのエリコの道端に座していたのが、「ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞い」(46)でありました。
盲目であること自体が当時の社会においては神の祝福から見捨てられた象徴のように扱われ、彼は最下層の苦境の中にありました。しかしナザレのイエスが通りかかられると耳にするや否や、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47)と大声で叫び始めたのです。
周囲の人々は彼を叱りつけ黙らせようとしましたが、彼はなおも激しく叫び続けました(48)。「ダビデの子」とは主イエスを単なる預言者や奇跡を行う者としてではなく、旧約において約束されたメシアすなわち救い主として仰ぐ信仰の告白です。
人間的な努力や世の助けに頼ることを完全に手放して、彼は主イエスのメシアとしての権威と憐れみだけに自らの全存在を投げ出したのです。主イエスが立ち止まり「あの男を呼んで来なさい」(49)と命じられたとき、バルティマイは「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」(50)と記されています。
実はこの「上着」は盲人の物乞いにとって夜の寒さを凌ぐ唯一の防寒具であり、地上における生存を支える最大の所有物また身分を示すものでもありました。未だ目が見えていない段階で自らのよりどころである上着を投げ捨てた行動は、自分の力で身を守ろうとする思いをすべて捨て去って主のもとへ駆け寄る信仰の決断を示しています。
バルティマイのこの即座の応答は、後に使徒パウロが「古い人を脱ぎ捨て、神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい」(エフェソ4:24)と勧告したキリスト者の聖化の歩みを鮮やかに先取りするものと言えましょう。「わたしに何をしてほしいのか」(51)と問う主に向かって、彼は「見えるようになりたいのです」と本当に求めるべきものをはっきりと答えています。
ただちに主は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52)と宣言されますが、ここで明かされる「信仰」とは人間側の立派な功績や道徳的な実績とは全く異なります。それはただ自らの無力さを認め、キリストの憐れみに自分の全存在を委ねる姿勢です。
主イエスとの出会いによって罪赦されて暗闇から光へと移される「救い」すなわち義認の恵みは、神の決定的な介入によって与えられる瞬間的な出来事です。何十年と教会に通っても悟ろうとしない者がいる一方で、主に一度出会ったばかりのバルティマイは直ちに信じて瞬時に暗闇から解放されて目が見えるようになりました。
そして目が見えるようになったバルティマイは元の生活に戻るのではなく「なお道を進まれるイエスに従った」(52)のです。決定的な救いを受けたその瞬間から私たちの生涯は弟子としてキリストに従う生き方、すなわち「漸進的な聖化」の歩みが始まりました。
真の救いを与える信仰とはご利益主義でもなければ何かを得て終わるようなものではないのです。「あなたの信仰があなたを救った」と主がお認めになる全き信頼はその人自身の損得勘定をはるかに超えて、あるいは弟子たちの霊的盲目とは対照的に、十字架へと向かう主の歩みにそのまま従う弟子の生き方として現れます。
2,新しい人を身に着け
私たちキリスト者は「ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」(日本基督教団信仰告白)と告白するとおり、主なる神からの一方的な恵みによって罪を赦され神の子と「見なされた」(義認された)者にすぎないわけです。したがって、もし仮に過去の時点まで遡ってやり直すことができたとしても、私自身が変わるのでなければ結局は別の過ちを犯してしまうというのが人間の限界です。
すなわち主イエスを信じて義と「見なされた」としても、その内面が実際にはその清さに達していないという現実にキリスト者はいつも直面するのです。ただキリストを信じることによって救われたにもかかわらず、私たちの心の内側にはキリストを知らない「異邦人と同じ」歩みや「滅びに向かっている古い人」の性質、つまり不信仰や自我という「罪の根」が依然として潜んでいるからです。
使徒パウロはエフェソの信徒への手紙4章において、信仰者の内に残る「古い人」の構造を明らかにしています。それは無知と心のかたくなさによって「神の命」(エフェソ4:18)から離れ、情欲の惑わしによって滅びに向かう性質です。
心の奥底にこびりついている「罪の根」とも呼ばれる性質から「偽り」「不義の怒り」「悪意」という悪いものが生じます。図らずもあなたの言葉や態度としてこれらが現れたとき背中から水を浴びせられたような思いのうちに身震いしては、あわてて主なる神の前にひたすら赦しときよめを求めて祈ったという経験はないでしょうか。
救われた後に自らの力で立派に生きようと努力しても叶わないので、私たちは自分の弱さやわがままさに直面しては苦しむのです。救いの恵みと罪の現実との葛藤に苦しむのは、実にこの内なる古い性質が残っているためであり、悩むのもまた全ききよめを求めているからです。
だからこそ義認の恵みに甘んじて罪の根を放置するのではなく、私たちは聖霊と御言葉によって内側からきよめられる聖化の恵みを体験的に受けていく必要があります。バルティマイが古き上着を脱ぎ捨てて主のもとへ走ったように、私たちは不信仰や古い自我を主の十字架につけて取り除いていただくのです。
「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ4:24)とパウロが教えるとおりです。ところが私たちはこの御言葉をともすれば人間側の道徳的規範や自力達成の目標のように受け取りがちではないでしょうか。
もしキリスト者が「洗礼を受けたのだから清く生きねばならない」と自分の意思や努力だけに頼ろうとするならば、遅かれ早かれ挫折するか福音書にしばしば登場するファリサイ派の人々のような自己義認を生み出すことになるでしょう。しかし「新しい人を身に着け」という教えは、いわゆる自己実現を迫る律法主義とは根本的に相容れないものです。
それは「あなたの信仰があなたを救った」(52)と言われた主イエスの言葉に基づく、神の恩寵としての約束であります。実に主なる神は御子を信じる者たちのためにアダムにおいて失われた神の形を新品の礼服として用意してくださいます。
パウロが「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ13:14)あるいは「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」(エフェソ4:24)と記しているとおりです。主なる神がこの新しい人を信仰者に着せてくださるのは、まさに罪の現実のただ中に生まれた罪人たちを霊的盲目の状態から救う全人的な癒しのみわざです。
目が見えるようになったバルティマイが真理である主イエスに従ったように、キリストを信じる信仰によって義とされた者は霊的な目が開かれます。そして霊の目が開かれた者は、内に住まわれる聖霊の力によって「真理に基づいた正しく清い生活」(エフェソ4:24)へと導かれます。
あのバルティマイが元の物乞いの生活や安逸な道に戻らずに十字架へと進まれる主イエスの歩みにそのまま従ったように、新しい人を身に着けた私たちもまた主の道に従って歩みだします。そして「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソ4:52)との御言葉が、私たちの実生活の中で生き生きと現わされることになります。
自らの不完全さを主の前に正直に差し出し、私たちの内に働かれる聖霊の力によって古い自我を退け、神にあらかじめ用意された「新しい人」を着せていただきましょう。そして主の再び来られる日を待ち望みつつ、聖霊の導きに応じて互いに赦し合い、愛のわざに励みながら主が進まれた十字架と復活の道に従います。
<結び>
「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(マルコ10:52)
かつて盲人だったバルティマイが自らを守っていた古い上着を脱ぎ捨てて主の癒しを受け、十字架への道に従いました。私たちも古い自我を脱ぎ捨てて十字架につけていただきましょう。
信仰によって義とされたとはいえ、私たちは心の内にある「罪の根」をきよめていただく必要があります。御言葉と聖霊によるきよめを主が用意してくださったのですから、新しい人を身に着けた私たちは古い自分を捨ててキリストの愛と従順の道へと進みます。
「心の底から新たにされ、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4:23-24)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)