マルコによる福音書12章1-12節「異邦人の光」

2026年8月23日
牧師 武石晃正

 聖霊降臨節第14主日にあたり、使徒言行録の時代から聖霊なる神は教会を主が再び来られるその日まで福音宣教の働きへと押し出しておられることを覚えます。あのエルサレムの家で弟子たちに聖霊が降ったその日以来たゆむことなく福音の真理が宣べ伝えられたことによって、世界の東の果てともいえる日本にまでキリストの救いが伝えられました。

 全能者であり天地万物の創造主である神が当初に契約の民とされたイスラエルにとどまらず、かつては異邦人と呼ばれて契約の外にあったあらゆる民をキリストの救いへと招いておられます。本日はマルコによる福音書を中心に「異邦人の光」と題して救いの恵みに与りましょう

PDF版はこちら


1.愛する息子を遣わす神の御愛

 朗読された箇所は主イエス・キリストが群衆の大歓声の中でろばに乗ってエルサレムへ入城された直後、神殿の境内で祭司長や律法学者たちという当時のユダヤの指導者たちを前にたとえ話を語り始めた場面です。彼らはユダヤの人々ですので旧約聖書のことをよく知っており、「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」(1)と聞けばすぐにイザヤ書5章の「ぶどう園の歌」を思い起こしたことでしょう。
 天地創造の神はイスラエルという民を特別に選び出し、深い慈しみをもってぶどう園になぞらえられる約束の地という恵みをお与えになりました。そして収穫の時を迎えると、その果実を受け取るために次々と「僕」すなわち預言者たちを遣わし、「農夫たち」つまりご自分の民のところへ送られました(2)。

 すると農夫たちはなんと最初に来た僕を袋だたきにして追い返し、次に来た僕の頭を殴って侮辱しては3人目の僕にいたっては何と殺してしまったというのです(3,4)。その後に送られた多くの僕たちも殴られまた殺されたと主イエスは語られますが、実にこの「僕たち」とは主なる神が遣わし続けられた有名無名の預言者たちです。
 エリヤやイザヤ、エレミヤのような名だたる者たちばかりでなく、名こそ知られずとも多くの預言者たちが民のもとへと遣わされました。そして洗礼者ヨハネに至るまで、主なる神は「神を畏れ、その戒めを守れ」(コヘレト12:13)「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)と愛の言葉を語り続けられました。

 ところが神の民と自負していた者たちは自らの権益や自己保身あるいは高慢さゆえに、神の言葉を伝える預言者たちを拒んでは迫害し、殺してきたのです。そして主イエスのたとえ話は「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」(6)と緊張感を募らせます。
 ぶどう園の主人の気持ちを考えると、当時の世界であれば主人は農夫たちを滅ぼし尽くしてもおかしくないことです。それにもかかわらず主人は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」(6)と一人息子を遣わしますが、この一言には父なる神の忍耐と私たち人間の想像を遥かに超えた溢れるばかりの御愛が示されています。

 主人の息子がぶどう園を訪れるや、信じがたいことに農夫たちは「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」(7)と悪だくみを巡らせました。主人の心を知らない者たちはとうとう「息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」(8)のです。
 福音書はこのたとえにおいて独り子である神キリストがエルサレムの城門の外、ゴルゴタの丘において十字架につけられて死なれたこと指しています。主イエスご自身が受難について預言されたのです。

 「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(9)と、たとえによる教えは結ばれています。主はユダヤの指導者たちに対してその責任への重い問いを投げかけられたのです。
 半ばうなずきながら聞いていたであろう宗教指導者たちは、この最後の問いによってようやく「イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいた」(12)のでした。憤りに任せて捕らえようとしたものの群衆を恐れた彼らについて福音書は「イエスをその場に残して立ち去った」(12)と不穏な空気を漂わせたまま話を区切ります。


2.地の果てを照らす異邦人の光

 ここで私たちは立ち止まって考えてみましょう。ともすれば私たちはこの聖書箇所を読むとき、「昔のユダヤ人たちは何と悪い奴らなのだ」と他人事のように裁いて終わらせてしまうことがあるからです。
 日本基督教団信仰告白において告白されるとおり「聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言」であります。したがって福音書の記事も単なる過去の出来事にとどまらず、この聖霊によって語られる神の言は後代の教会すなわち今ここにいる私たちに向けて語られています。

 特に洗礼者ヨハネが「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」(ルカ3:8)と告げたように、「自分はクリスチャンだから」「長年教会に連なっているから」ということだけで満足してはいないでしょうか。もしそうであるならば、あなたは心の奥底で主なる神の恵みを自分の私有物のように錯覚していることになります。
 主なる神は私たちが生きるために命、健康や財産、そして教会という恵みを「ぶどう園」のように預けてくださいました。それは私たちが世の知恵や富に仕えるためではなく、「神の国と神の義を第一に求め」(マタイ6:33)ることによって信仰の実を生じさせて主なる神の前で喜び味わうためでした。

 信仰の実を結ぶとは、自分の力や道徳心で立派な信仰者になろうと背伸びすることとは全く異なります。自分の弱さも不完全さもすべてありのままに主の御手に明け渡し、自分の生涯のすべてを聖霊の導きに委ねる全き献身の歩みの中にこそ、主ご自身が豊かな実を結ばせてくださるのです。
 もし教会あるいは私たち各々が神の言葉を聞いてもこれに従うことをせず、自分の思いや世俗の習慣を優先し、たとえの農夫たちと同じ轍を踏むならばどのような結果が待っているでしょうか。やがてぶどう園の主人のように再臨の王キリストが来られるとき、私たちに向かって厳粛な審判者として現れることになるでしょう。

 さて福音書において神の民と自負した人々が御子キリストを拒み異邦人の手に引き渡したところから、主なる神の救いの計画における驚くべき転機が現わされました。更にはペンテコステの日に聖霊がキリストの弟子たちに降ると使徒たちを営みの中心とする教会が産声をあげ、あらゆる国の言葉によって御国の福音が宣べ伝えられ始めたのです。
 その中でも使徒パウロとバルナバがピシディアのアンティオキアで宣教した際のできごとを取り上げてみましょう(使徒13:13以下)。ねたみに燃えたユダヤ人たちは口汚くパウロをののしっては反対した場面です(使徒13:45)。

 けれどもパウロとバルナバは臆することなく勇敢に次のように宣言しました。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。」(使徒13:46)
 何と神の民であったはずの人々が自分自身を「永遠の命を得るに値しない者にしている」ということです。彼らを救いから拒まれたのは主なる神のほうからではなく、何度も繰り返し招かれていたにもかかわらず御言葉を拒むという不従順によって、人間のほうが自らを永遠の命すなわち救いの恵みから締め出してしまったていたのです。

 続けてパウロは旧約のイザヤ書の言葉(イザヤ49:6)を引いてこう続けました。「主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」(使徒13:47)
 独り子なる神キリストこそが、暗闇を照らす異邦人の光であります。実に主は「言を受け入れた人、言の名を信じた人々には、神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)のであり、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と約束されています。

 血筋や律法の行いによらず、ただ主イエスを信じる信仰によって誰でも神の前に義とされます。創造主なる神の前に立ち返りただキリストの十字架の贖いを信じるなら、異邦人と呼ばれていたあなたも神の子とされ永遠の命が与えられるという恵みを受けるのです。
 世の片隅で「自分は誰からも必要とされていない」「神の恵みを受ける資格などない」と孤独や自己否定に沈む人にこそ、主は目を注いでおられます。家を建てる者が無価値として捨てた石を神が最も尊い隅の親石とされたように、世に傷つき拒絶を経験したあなたをキリストはその十字架の愛によって決して見捨てることなく、ご自身の命の光の中へと抱き留めてくださるのです。

 キリストがすべての人を救う異邦人の光となられたことにより、キリストとも関わりがなく主なる神も知らなかった私たちがキリストの血によって神との和解をうけました。独り子さえも惜しまずこの地へと賜った父なる神の御愛によって、かつての神の民のためばかりでなく地の果てにいる私たち「異邦人」にも救いの恵みが注がれました。


<結び>

 「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』」(マルコ12:10)

 父なる神は独り子キリストを遣わされましたが、人間は高慢ゆえに拒み十字架につけました。しかし神はこの拒絶を超えて救いを広げ、異邦人であった私たちをも「異邦人の光」である恵みへと招いてくださいました。
 神から託された命や教会というぶどう園で愛の実を結び、独り子さえ惜しまない御愛に信頼して歩みましょう。今ここで主の招きに応答するなら、異邦人の光となられたキリストが暗闇を照らすあなたの確かな救い主となってくださいます。

 「主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」(使徒13:47)

(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)


このブログの人気の投稿

マタイによる福音書27章32-56節「十字架への道」

マタイによる福音書19章13-30節「愛によって歩みなさい」

マタイによる福音書13章44-52節「天に属する者たち」