マルコによる福音書9章42-50節「罪と戦って」
2026年8月2日
牧師 武石晃正
先週の月曜日から火曜日にかけて「ホーリネスの群」では東北ブロックと九州ブロックにおいてそれぞれ夏期聖会が催されました。聖会が終わり、参加者の多くが帰路についておられた時間帯に熊本県を震源に非常に強く大きな地震が発生いたしました。
被災された皆様への救援と支援が速やかに行われますよう、また主の豊かな慰めと励ましがありますよう共に祈りを合わせましょう。熊本城東教会が軽微な被害にとどまり、聖会の参加者も交通機関の遅れがあったものの帰宅まで守られたことはただ主なる神の憐れみによるところです。
教会が主の日毎に礼拝を守り、そのために私たちは身と心をきよく保つ努力をすることですが、これもまた主の深い憐れみと聖霊の助けによってなしうるものです。主の恵み深さを味わい知りつつ本日はマルコによる福音書を開き、「罪と戦って」と題してキリストの救いを受けた者が歩む道を求めましょう。
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1.つまずきを取り除く(42-48節)
マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は共観福音書と呼ばれており、3人の著者がそれぞれの角度から多くの共通する出来事を記しています。「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42)という衝撃的なたとえは、3つの福音書に共通して書き残されています(マタイ18:6、ルカ17:2)。
聖書で用いられている「つまずかせる」という言葉は、私たちが日常生活で「ちょっと気を悪くした」という程度の意味ではないのです。誰かをそそのかして「罪を犯させる」あるいは「信仰の道を諦めさせてしまう」という意味を持つ極めて深刻な動詞を用いて主イエスは弟子たちを戒めています。
主が言われる「これらの小さな者の一人」(42)とは単に存在が小さいとか弱者であるということではなく、「わたし」すなわち主なるキリストを信じる者を指しています。自分自身では力を持たず、ただ主なる神の前に全き信頼を注ぎ出している無防備な者です。
純粋に主を信じてこの世の力を頼みとしない信徒や求道者のことですから、真の信仰者であれば同じ立場にあるはずです。しかしキリスト以外のものを支えとして握っている者たちは不用意にもこれら他に支えをもたない人々を信仰の道からこの世の基準へ引きずり下ろそうとするものですから、主は厳しくお咎めになるのです。
更にこのつまずきが引き起こすさらに深刻な問題は、罪を犯した当人が自分の罪を他人のせいにする「他責の欺瞞」や言い訳を生み出してしまう点にあります。「つまずかせる者」と指をさされた側も反発し、そこには泥沼の憎しみ合いが生まれてしまいます。
けれども主なる神の目にはそのような不公平はなく、罪を犯した者はその人自身が犯した罪のゆえに裁きを受けるのです。つまずかせる者は他人に罪を犯させたゆえに裁かれるとして、どんな理由があろうとも言い訳によって罪が見逃されることはないのです。
と申しますのも、実に人類にとって最初に犯された罪からこの問題をはらんでおりました。最初の人アダムは主なる神に罪を問われた際、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)と自らの罪を他人どころか創造主なる神のせいにするほどの居直りを見せました。
罪の恐ろしさは行為そのものの善悪の問題以上に、自分の罪を認めず他人のせいにするところにあります。人間同士に憎しみを主なる神との間に敵意を生じさせるからです。
だからこそ主イエスは、つまずきをもたらす者に対して徹底的に拒絶を示されます。さらに主は、片手、片足、片目を切り落としてでも命にあずかるほうが、五体満足なまま地獄に投げ込まれるよりも良いという過激な比喩を続けられます(43-48)。
地獄と訳されている「ゲヘナ」という語の由来はエルサレムの南のはずれにあった「ヒノムの谷」という意味です。この谷にはかつて異教の神々に我が子をいけにえとして捧げた不信仰の祭壇があった場所であり(エレミヤ7:31、32:35)、主イエスの時代には汚物を焼き尽くす炎が絶えず燃え盛る、主なる神の裁きを象徴する場所でありました。
片方の手や足そして目を切り捨てよと主イエスがここでおっしゃるのは、実際に肉体を傷つければよいという命令ではないのです。身を切る決意をもって罪へと誘惑する環境や習慣を徹底的に遮断するという、人間側の断固たる応答を主は求めておられます。
世の中の因習や「私」が生まれ育った地域のしきたりなど当たり前のことになっているものには、それが異教的なものであったとしても私たちの感覚が鈍って気づかないことがあります。つまり主が忌み嫌われる偶像崇拝やまじないの類が明らかに存在しているにもかかわらず、キリストの信仰との矛盾を感じないどころかむしろ良いことをしているかのような錯覚をすることさえあるのです。
手や足にたとえて心の内側の不信仰を語るのはヘブライ人への手紙も同様です。聖書は「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」(ヘブライ12:12)と、主なる神の前にまっすぐに立って歩む霊的なきよさを求めています。
2.神と人との和解(49-50節)
もし仮に自分のつまずきとなる手や足を切り捨てることができるとするならば、人間の決断によって外的な罪の機会を遮断することができることになります。たとえそうであったとしても、私たちの内側にある「罪の根」が完全に消え去るわけではないのです。
人間の内側に根深く残っている罪の根がきよめられるためには、主なる神のほうから私たちへ働きかけてくださる能動的な恵みと聖霊の働きとしての「塩」が不可欠です。誰かのせいにしたところで私自身がきよくされることはないのですから、私たちは自らの内にある罪と汚れを主の御前に率直に告白してきよめの恵みをいただくのです。
主が語られた「人は皆、火で塩味が付けられる」(49)という言葉は、旧約の祭司律法を知る弟子たちにとって非常に明快な表現でした。レビ記には神に捧げる穀物の献げ物には必ず「契約の塩」を添えることが厳命されており(レビ2:13)、その塩で清められた献げ物は祭壇の「火」によって焼かれて神に宥めの香りとして捧げられたのです。
ここで主イエスが「火」と言われるのは、直前の地獄(ゲヘナ)の滅びの火とは区別されます。これは主を信じる者が神に受け入れられる「生きた供え物」(ローマ12:1)となるために通過しなければならない「精錬と聖化の火」です(ペトロ一1:7、4:12)。
主はなぜ消えることのないゲヘナの火(48)を警告された直後に、「なぜなら、人は皆、火で塩味が付けられるからだ」(49)と理由を続けられたのでしょうか。それはあなたがたが永遠の滅びの火に投げ込まれることがないためであり、今ここでキリストの弟子として自らを神に捧げ、罪を断ち切る精錬の火を受け入れなさいとお招きになるためです。
このように火で焼かれ内側に「契約の塩」を持つことによって、その献げ物は主なる神に受 け入れられるものとなります。すなわち「火で塩味が付けられる」(49)ことと「自分自身の内に塩を持ちなさい」(50)と命じられていることは、人が主なる神との契約関係に固く結ばれることを意味しています。
古代の塩が不純物と混ざり合うと自らの味を失って捨てられたように、キリスト者が世の価値観や偶像的因習と同化するとき信仰の塩気は失われてしまいます。私たちが自らの内に「契約の塩」を保ち続けるためには、身を切るような自己否定と試練という火を通して、私たちの内なる罪の不純物を燃やし尽くしていただく必要があるのです。
では私たちは地域の行事や親族の集まりに対してどのように向き合うべきでしょうか、その基準は明確です。第一に「主なる神以外のものを拝む宗教的行為や偶像崇拝」には身を切る思いで加わらないことです。
第二に「隣人を愛し、地域や親族に仕える交わりや奉仕」にはキリストの塩気をもって積極的に貢献することです。真のきよさは世から逃避することではなく、世の中でキリストの平和を実現することにあります。
宗教改革者ルターが「義人であって、同時に罪人」と語ったように、私たちは自分自身の行いではなくただキリストの十字架のゆえに神の前に義と認められます。しかし主の恵みはそこだけにとどまらず、主が義と認めてくださった私たちに聖霊の精錬の火を注ぎ、内なる「罪の根」をきよめて神と人への全き愛へと日々導いてくださるのです。
「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」(50)と命じられた背景には、弟子たちが「だれがいちばん偉いか」(9:34)と互いに競い合っていた現実がありました。他者をつまずかせ傷つける最大の罪は、私たちの内にある「自分が一番になりたい」という高慢と自己保身です。
体の一部を切り捨てるような激しさで戦うべき相手とは、他人ではなく自分自身の内にある高慢さという罪なのです。自分自身の内にキリストの悔い改めの塩を持ち、自らの罪を正直に認めて十字架の前にひざまずくとき、私たちは他者の過ちを赦し家庭や教会において「平和をつくる者」となることができるのです。
<結び>
「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブライ12:3-4)
主イエスは他者をつまずかせる罪の深刻さを指摘し、身を切る決意で罪やこの世の因習を断ち切るよう求められます。私たちは自らの内にある罪を直視して告白し、神の恵みによって「契約の塩」である信仰のきよさを保ちましょう。
試練という火によって聖霊なる神は私たちの内に「塩」を保ってくださいます。キリストが十字架で私たちの身代わりとなってくださったのですから、罪と戦って私たちの内にあるつまずきとなる一切のものを取り除かれていきましょう。
「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9:50)
(引用「聖書新共同訳」©日本聖書協会)