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マルコによる福音書9章33–41節「すべての人に仕える者」

2026年7月26日 牧師 武石晃正  教会の子どもたちを見ているとできることが増えて力自慢をする一方、自らの限界を知り大人に頼ることも身に着けています。しかし大人は人に頼ることが難しくなり、自力で救いを獲得しようとする「自己中心的な古い自我」が現れがちです。  十字架の救いを脇に追いやらぬよう、聖霊の助けにより聖化の恵みを受けましょう。本日はマルコによる福音書を開き、受難を見据える主の語りかけから「すべての人に仕える者」という題で御言葉に聴きましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.だれがいちばん偉いか  主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤでの宣教の拠点であったカファルナウムの家に着かれました(33)。「高い山」で神の御子としての栄光を示され、麓で苦しむ少年をおいやしになった後、主は人に気づかれないようにガリラヤを通って来られました(30)。  ご自身の使命である受難の成就に集中されるとともに、身をもって心の痛みと体の苦しみをお引き受けになろうとしておられたのです。主イエスは道すがら弟子たちへご自分が人々の手に引き渡され、殺され、三日の後に復活するという二度目の受難予告をなさいました(31)。  全ての罪を贖ういけにえとなろうという十字架の道でありましたが、弟子たちは一緒に歩んでいたもののその思いは伴っておりませんでした。彼らは主のお言葉の意味が分からないばかりか、不都合な真理に向き合うことを恐れて「怖くて尋ねられなかった」と記されています(32)。  不都合な事柄に直面すると、人は無意識のうちに自分の知っている話題へと問題をすり替えてしまうことがあります。弟子たちは彼らの主の受難という重苦しい話題から目を背け、後継者は誰かと各自の実績や働きぶりを誇り合っては「だれがいちばん偉いか」と途中で議論していたのです(34)。  いくら主のため教会のためと銘を打っていたとしても、自分の奉仕の実績や献身を自らの功績として握りしめてしまうことはないでしょうか。もしそうなってしまうならば信徒であれ牧師であれ、十字架の前で「私は十分によくやったのだから救われるのだ」と主張する業績主義や自己義認の罪に陥ることになるのです。  世の競争社会の中で常に「何ができるのか」「どんな価値があるのか」と値踏みされては傷ついて、自分の力で立つことすらできないと絶望している方がおられるでしょうか...

マルコによる福音書9章14–29節「祈りによらなければ」

 2026年7月19日 牧師 武石晃正  もしキリストが肉体をもって地上におられた時代に私たちが生きていたなら、直接その御声を聞いたり悩みや苦しみをその場で訴えたりすることができたでしょうか。時に私たちは今の時代よりも当時の人々のほうがはるかに容易にかつ深く祈ることができたのではないかと思うことがあるものです。  果たして主と直接出会うことのできた当時の弟子たちや群衆は、現代の私たちよりも上手にそして正しく祈ることができていたのでしょうか。本日はマルコによる福音書を開き、「祈りによらなければ」と題して主の御前における信仰の根底を見つめなおしましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.なんと信仰のない時代なのか  ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人のみを伴って主イエスが「高い山」に登られ、そのお姿が真っ白に輝くという神の国の栄光を現された直後のことです。山のふもとで待ち受けていたのは、人間の不信仰と挫折が引き起こした大混乱の光景でした。  高い山での輝かしい主の変容を目の当たりにした一同が里へ下りてきて最初に目にしたのは、留守を任されていた9人の弟子たちが「大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」(14)という殺気立った騒乱でありました。議論とは書かれておりますがそれは決して対等な対話などではなく、困難な状況を前にして立ち往生する弟子たちを律法学者たちが一方的に責め立てて口論になっていたというのが真相のようです。  その混乱の中心にいたのは幼い時から「霊」に取りつかれ、所かまわず地面に引き倒されては泡を吹き、引きつけを起こして体を硬直させては苦しんでいる一人の息子です。その父親も親子どもどもに何年も苦しみ抜いてきたのです。  父親は霊を追い出してくださるよう弟子たちに頼みましたが、弟子たちにはそれができませんでした(18)。その失敗を見た律法学者たちは「ナザレのイエスがメシアを自称しているのは偽物であり、その名に力はない」という決定的な口実を見つけたとして、一斉に非難の声を浴びせた様子が目に浮かぶようです。  弟子たちとしては以前に「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6:13)という確かな「実績」があっただけに引っ込みがつかなかったわけです。彼らは主から授かった権威をまるで自分自身の力であるかのように錯覚しておりましたので、事の顛末...

マルコによる福音書8章22–26節「はっきり見えるように」

2026年7月12日 牧師 武石晃正  1909年7月11日を創立とする米子教会は117周年を数えます。昨年度は数年の遅れを取り返して創立百十周年記念誌を発刊し、草創期より礼拝場所を移しながらも主に仕え福音を宣べ伝えてきた教会を主がいかに恵みをもって導いてくださったのかを覚えました。  米子教会が現在の状態に至るまでに117年も要したこと、ことさらに傷や痛みの回復には主の恵みが注がれても長い年月を要したことです。独り子である神キリストが私たち人間と同じ姿で世にお生まれになり人間の成長や回復には時間がかかることを味わってくださったので、忍耐をもって教会とともに時間をかけて歩んでくださいました。  「私たちは今までこのようにやってきた」と人の営みを誇るなら、パン屑でいっぱいの籠を数えるだけだった弟子たちのように「目があっても見えない」者になるでしょう。本日はマルコによる福音書を開き、「はっきり見えるように」と題して私たちの弱さに寄り添われるキリストの恵みに思いを向けましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.人が見えます。木のようです  舟に乗った主イエスと弟子たちの一行がベトサイダに着いたところへ人々が一人の盲人を連れてきて、「触れていただきたいと願った」(22)ところから本日の箇所の話が始まります。当時のユダヤ社会では目が見えないことは本人あるいは親が犯した「罪の結果」であると考えられておりましたので、それだけで社会的に差別を受けておりました(ヨハネ9:2)。  したがって目の見えない人を癒すという行為は単に視力を回復させるという癒しのわざであるばかりでなく、旧約の預言者によれば罪を完全に赦す権威をもっている救い主のしるしです(イザヤ35:5-6)。しかし、主はその特別なみわざを人々に見せるためのしるしとして行うことをせず、この盲人の手を取り「村の外に連れ出し」(23)たのです。  奇跡を見世物にすることなく、主はここに苦しんでいる一人の人と向き合って親密な交わりをもってくださいました。村の外までこの人を連れて出たところで主は彼の目に唾をつけて両手を置かれました(23)。  唾をつけるという当時の民間療法とも共通する方法は、主イエスが高い天から一方的に命令を下すのではなく私たち人間と同じ地平に立っておられたことの証しです。神である方が人間の苦しみに自ら触れてくださり、...

マルコによる福音書8章14–21節「愛の実践を伴う信仰」

2026年7月5日 牧師 武石晃正  7月に入り台風の影響を受けながらも、ちょうど今の日本の季節は梅雨の最中です。湿度も気温も高い時期を迎えていますから、私たちは食中毒を防ぐために正しい手洗いを励行し、ふきんやまな板を漂白剤に漬け込むなど徹底的な殺菌や消毒をいたします。  聖書の時代には冷蔵庫や真空調理機などは当然ありませんので、ほんのわずかでも雑菌が残っていればそれがまたたく間に増殖して家全体を汚染してしまうこともあったでしょう。パンを焼くにも生の酵母でしたから、発酵を繰り返しながら使い続けることはとても気を付けなければならないものでした。  神の御前にきよく誠実でありたいと思っても、人の前で自分をよく見せたいという偽善や虚栄がほんの少しあるだけで生き方全体に膨らんでしまうこともあるものです。本日はマルコによる福音書を開き、「愛の実践を伴う信仰」と題してイエス・キリストの恵みの言葉に思いを深めましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.まだ、分からないのか  マルコによる福音書8章には主が7つのパンをもって4000人もの人々の空腹を満たし、7つの籠にいっぱいのパン屑を弟子たちに賜った出来事が記されています(1-10)。神のわざの品定めをしようと「天からのしるし」を求める者たちに背を向けて、主イエスは再び舟に乗って向こう岸へと去っていかれました(11-13)。  ここから本日の朗読箇所が始まり、一同が舟に乗って移動している場面です。弟子たちは重大な失敗に気づき、先ほどまで7つの籠にいっぱいあったはずのパンが一体どこへ忘れてきてしまったのか見当たらないのです。  とにかく「舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」(14)というのですから、この時の弟子たちの落ち着かない様子は並大抵のものではなかったでしょう。とはいえ彼らは自分たちだけで議論したり解決したりしようとするあまり、神の子である主イエスを蚊帳の外に追いやってしまったのでした。  本来であればたった一つであったとしても手のうちにあるパンを差し出して「主よ、パンが一つあります」と委ねればよかったのです。弟子たちは先生を煩わせてはならないと思ったのか怒らせてしまったと不安を覚えたのか、たった今ここで起こっている困難を正直に主の前に明かすことができませんでした。  そこで彼らの思いを見透かされた主イエスは弟子たち...

マルコによる福音書6章14–29節「約束に従って」

2026年6月28日 牧師 武石晃正  キリストを信じて何か良いことがあるのか、とあなたが信仰の証しをしたときに誰かから尋ねられたことはあるでしょうか。信仰者自身でさえこの世の価値観との間における葛藤や矛盾に悩んでは、苦しみばかり数えてしまうこともあるものです。  人間の体裁や立場を守ろうとすることから不条理な弾圧や迫害が引き起こされるという現実は聖書の時代から近現代に至るまで絶えることなく続いています。日本でも1942年6月26日に治安維持法違反の容疑から全国のホーリネス系教会の教師96名が一斉に検挙されるという「ホーリネス弾圧事件」が起こりました。  逮捕され拘置所に抑留された多くの教師たちは不当な取り調べによって心身に深い傷を負わされましたが、主イエスこそが世界の統治者として再び来られるという信仰が文字通り命をかけて受け継がれました。本日はマルコによる福音書から洗礼者ヨハネの殉教の箇所を開きつつ、「約束に従って」と題して神の確かな約束について御言葉に耳を傾けてまいりましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.「洗礼者ヨハネの首を」  主イエスの御名が各地に知れ渡り弟子たちが宣教に遣わされていたその頃、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは深い不安と恐れに怯えていました。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」(14)という人々の噂を耳にしたとき、ヘロデは「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」(16)と腹の底から身震いしたことです。  世の権威によって表向きは正当な手順を踏んでヨハネを処刑したつもりであっても、彼の心には決して消えない恐怖が付きまとっていたのです。そしてこのヨハネの身に起こった悲劇の背景には人間の醜い体裁と自己保身が絡み合っておりました。  自らの兄弟の妻であったヘロディアを妻に娶るという神の律法(レビ18:16)に反する不法な婚姻をヘロデは行っていました(17)。洗礼者ヨハネが「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」(18)と彼を厳しく糾弾したのは単に不道徳を責めたというよりも、律法における違反によってヘロデがユダヤ人を治める王としての資質に欠いていることを追及したのです。  面目をつぶされたヘロデは腹いせのようにヨハネを捕らえて牢につなぎました(17)。けれども「ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていた」(...

マルコによる福音書6章1–13節「神の言葉を聞こう」

2026年6月21日 牧師 武石晃正  私たちは日々そして主日ごとの礼拝において「神の言葉を聞く」という特権にあずかっています。共に祈り賛美をささげ、聖書を通して語られる主の御声に耳を傾けること、これこそが教会の命の源泉です。  しかし私たちが日々開くこの聖書は神の言葉を聞くことがいかに私たち自身の「人間の思い込み」によって阻まれやすいかという現実をも告げ知らせています。本日はマルコによる福音書を開き「神の言葉を聞こう」と題して主イエス・キリストの恵みを受け取る備えをいたしましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.この人は大工ではないか  「イエスはそこを去って」(1)と話が切り出されておりまして、本日の聖書箇所はイエスが会堂長ヤイロの家で娘をよみがえらせた奇跡の後の出来事として記されています。マタイやルカによる福音書に照らすならば、ナザレのイエスの評判がガリラヤ地方である程度行きわたった時点のようです。  そこで主イエスは弟子たちを引き連れてご自身が育たれた故郷ナザレにお帰りになりました。ガリラヤの町々でそうであったようにナザレでもイエスのおられる家や会堂の戸口に人垣ができるかと思いきや、どうも様子が異なるようです。  ナザレの人々にとってイエスという男はつい最近まで自分たちと同じ土埃の中で汗を流していた身近な労働者の一人でありました。彼らにしてみればマリアの息子であるイエスは父ヨセフの仕事を継いだ大工に過ぎず、「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」(3)と名があげられている弟たちそして妹たちを養うために汗水を垂らしていた男に過ぎなかったのです。  この人々が特別に不信仰であったと言い切ることできるでしょうか。安息日に会堂へ集まっていたのですから、彼らは実にまじめなユダヤ人でありました。  伝統的な信仰を正しく守っているという強い自負を持っていたからこそ、安息日の会堂でマリアの息子イエスが語り始められたとき「多くの人々はそれを聞いて、驚いて」つぶやいたのです(2)。そして彼らの驚きは救い主への賛美や奇跡の人への称賛ではなく、「なぜあの大工のせがれが、あのような知恵や奇跡を行えるのだ」という疑いと侮蔑に満ちたものでありました。  人々はイエスについて「マリアの息子」と呼びました。それは父親の家系を重視するユダヤ社会にあって珍しいことでありますから、単にマリアの夫ヨセフがすで...

マルコによる福音書5章1–20節「自分の家族のもとに」

2026年6月14日 牧師 武石晃正  早いもので教会暦においては聖霊降臨節第4主日を迎えました。聖霊の注ぎに与った教会がそれぞれの場所に遣わされて福音を宣べ伝えることを覚える季節です。  キリストが十字架で流された尊い血によってすべての罪に対する代価が支払われ、この知らせを聞いて信じる者は誰でも罪の贖いを受けるのです。私たちはイエス・キリストの福音を誰から聞いて誰に伝えることでしょうか、本日はマルコによる福音書を開き「自分の家族のもとに」と題して主から受けた恵みと使命を確かめましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.「向こう岸」へ渡った先  マルコによる福音書5章の冒頭には、「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」(1)とあります。この「一行」とは主イエスから「向こう岸に渡ろう」(4:35)と招かれ、ガリラヤ湖の激しい嵐の中を共に舟に乗った弟子たちのことです。  ユダヤ人である弟子たちにとってガリラヤ湖の「向こう岸」とはただの外国であるという意味だけではありませんでした。その地には異教の神々を拝んでいる人たちすなわち付き合いをしてはならない「異邦人」が住んでおり、実に「汚れた土地」であったのです。  弟子たちにとってその旅路は希望に満ちた新天地への船出というよりも、できれば足を運びたくないものであり、行先は避けて通りたい場所でありました。しかし主は自ら助けを求めることも湖を渡ってイエスのもとへ来ることも叶わない人々、深い暗闇の底にある魂をもお救いになろうとされました。  あえて弟子たちを伴って主イエスは墓場と豚の群れが広がる土地へと乗り込まれたのです。そして舟から上がられた主イエスの前に真っ先に現れたのは「汚れた霊に取りつかれた人」(2)でありました。  聖書は彼について「墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」(3)と記しています。人々は彼の驚異的な力を恐れて足枷や鎖で縛り上げようとしましたが、その度に鎖は引きちぎられてしまいました。  人間の力や権威ではこの人の魂を支配する深い闇を根本的に解決することはできなかったのです。彼は昼も夜も墓場や山で叫んでは石で自分の体を傷つけ続けていたというのですから(5)、心も体も痛み苦しんでいたことです。  生きていながらにして「墓場」という死の支配する領域に隔離され...