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マルコによる福音書12章1-12節「異邦人の光」

2026年8月23日 牧師 武石晃正  聖霊降臨節第14主日にあたり、使徒言行録の時代から聖霊なる神は教会を主が再び来られるその日まで福音宣教の働きへと押し出しておられることを覚えます。あのエルサレムの家で弟子たちに聖霊が降ったその日以来たゆむことなく福音の真理が宣べ伝えられたことによって、世界の東の果てともいえる日本にまでキリストの救いが伝えられました。  全能者であり天地万物の創造主である神が当初に契約の民とされたイスラエルにとどまらず、かつては異邦人と呼ばれて契約の外にあったあらゆる民をキリストの救いへと招いておられます。本日はマルコによる福音書を中心に「異邦人の光」と題して救いの恵みに与りましょう ( PDF版はこちら ) 1.愛する息子を遣わす神の御愛  朗読された箇所は主イエス・キリストが群衆の大歓声の中でろばに乗ってエルサレムへ入城された直後、神殿の境内で祭司長や律法学者たちという当時のユダヤの指導者たちを前にたとえ話を語り始めた場面です。彼らはユダヤの人々ですので旧約聖書のことをよく知っており、「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」(1)と聞けばすぐにイザヤ書5章の「ぶどう園の歌」を思い起こしたことでしょう。  天地創造の神はイスラエルという民を特別に選び出し、深い慈しみをもってぶどう園になぞらえられる約束の地という恵みをお与えになりました。そして収穫の時を迎えると、その果実を受け取るために次々と「僕」すなわち預言者たちを遣わし、「農夫たち」つまりご自分の民のところへ送られました(2)。  すると農夫たちはなんと最初に来た僕を袋だたきにして追い返し、次に来た僕の頭を殴って侮辱しては3人目の僕にいたっては何と殺してしまったというのです(3,4)。その後に送られた多くの僕たちも殴られまた殺されたと主イエスは語られますが、実にこの「僕たち」とは主なる神が遣わし続けられた有名無名の預言者たちです。  エリヤやイザヤ、エレミヤのような名だたる者たちばかりでなく、名こそ知られずとも多くの預言者たちが民のもとへと遣わされました。そして洗礼者ヨハネに至るまで、主なる神は「神を畏れ、その戒めを守れ」(コヘレト12:13)「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)と愛の言葉を語り続けられました。 ...

マルコによる福音書10章46-52節「新しい人を身に着け」

2026年8月16日 牧師 武石晃正  聖霊降臨節第13主日の礼拝を迎えました。台風が迫る季節におきましても主の恵みのうちに御堂に会し、主日礼拝を献げることができます幸いを主に感謝いたします。  突然ですが、皆さんはこれまでの人生をやり直したいと思ったことはおありでしょうか。「全くない」と胸を張ることができるなら幸いでありますが、自らの失敗や愚かさを振り返っては思わずため息をつくこともありましょう。  洗礼を受け長年教会に通っていても、私たちの心の内側にはなお不信仰を象徴する古い性質、すなわち「異邦人と同じ」虚しさや「滅びに向かっている古い人」の罪の根が潜んでいるものです。本日はマルコによる福音書を開き、「新しい人を身に着け」と題して主イエスによる全き救いと全ききよめの恵みを求めましょう。 ( PDF版はこちら )  1.あなたの信仰があなたを救った  朗読いたしましたマルコによる福音書10章の場面は主イエスがガリラヤからヨルダン川沿いの街道を通ってエルサレムの十字架へと進まれる途上、受難前の最後の滞在地となったエリコの町に足を運ばれたときのことです。エリコは旧約においてモーセの従者ヨシュアが約束の地カナンに入った際に最初に勝ち取ったことで知られる歴史ある町であり(ヨシュア記6章)、福音書の時代においても多くの人々で賑わっていました。  ここで重要なのは直前の場面でイエスの一番弟子であるヤコブとヨハネが栄光の座を争い、主の十字架の道を理解できない「霊的な盲目」におちいっていたことです。そのエリコの道端に座していたのが、「ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞い」(46)でありました。  盲目であること自体が当時の社会においては神の祝福から見捨てられた象徴のように扱われ、彼は最下層の苦境の中にありました。しかしナザレのイエスが通りかかられると耳にするや否や、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47)と大声で叫び始めたのです。  周囲の人々は彼を叱りつけ黙らせようとしましたが、彼はなおも激しく叫び続けました(48)。「ダビデの子」とは主イエスを単なる預言者や奇跡を行う者としてではなく、旧約において約束されたメシアすなわち救い主として仰ぐ信仰の告白です。  人間的な努力や世の助けに頼ることを完全に手放して、彼は主イエスのメシアとしての権威と...

マルコによる福音書10章13-16節「神の国を受け入れる」

2026年8月9日 牧師 武石晃正  米子教会が属しておりますホーリネスの群は例年であれば8月になるとユースバイブルキャンプを首都圏と近畿のブロックそれぞれで行っております。今年はホーリネスの群結成80周年の記念事業として全国から奉仕者と参加者を募り、長野県にあります国立信州高遠青少年自然の家を会場に行われました。  しばしば日常生活を離れて聖書の言葉に浴しては御霊の豊かな導きに思いを深めることも大切であり、その一方で日々の生活の中で御言葉を実践することにより私たちは信仰を成長させていただくものです。欠けだらけの私たちに期待してくださる主なる神の限りない愛を覚えつつ、本日はマルコによる福音書を中心に「神の国を受け入れる」と題して主の御愛によって形作られる教会の交わりについて思い巡らせてまいりましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.子供のように神の国を受け入れる  マルコによる福音書10章には非常に印象的な場面が記されており、人々が主イエスに触れていただくために子供たちを連れてきた時のことです。ところが子供たちを連れてきた人々を見た弟子たちは、なんとその人々を厳しく叱りつけたというのです(13)。  現代を生きる私たちの感覚からすれば、なぜ弟子たちがわざわざ子供を連れてきた親たちを叱らなければならなかったのか不思議に思われるところです。しかし主イエスが歩まれた第一世紀のパレスチナの社会において、「子供」という存在は必ずしも「純真で、手厚く保護されるべき尊い存在」としては扱われてはおりませんでした。  当時の社会において子供という存在は労働力を持たず大人に完全に依存しなければ生きられないため、社会的にも経済的にも価値が低いと見なされていました。また、律法の知識を持たないことから宗教的にも「取るに足らぬ者」とされていたのです。  弟子たちとしても決して悪気があっての言動ではなかったことでしょう。彼らの主は偉大な教えを語っては多くの人々の病を癒すことで多忙を極めておりましたから、その貴重な時間を社会的価値のない子供たちのために割くことわけにいかないという彼らなりの配慮であると推して知るところです。  とはいえ、主イエスはその弟子たちの様子をご覧になると激しく憤られました。聖書の中で、主イエスがこれほどまでに感情を露わにして憤られた場面は数えるばかりです。  主は「子供たち...

マルコによる福音書9章42-50節「罪と戦って」

2026年8月2日 牧師 武石晃正  先週の月曜日から火曜日にかけて「ホーリネスの群」では東北ブロックと九州ブロックにおいてそれぞれ夏期聖会が催されました。聖会が終わり、参加者の多くが帰路についておられた時間帯に熊本県を震源に非常に強く大きな地震が発生いたしました。  被災された皆様への救援と支援が速やかに行われますよう、また主の豊かな慰めと励ましがありますよう共に祈りを合わせましょう。熊本城東教会が軽微な被害にとどまり、聖会の参加者も交通機関の遅れがあったものの帰宅まで守られたことはただ主なる神の憐れみによるところです。  教会が主の日毎に礼拝を守り、そのために私たちは身と心をきよく保つ努力をすることですが、これもまた主の深い憐れみと聖霊の助けによってなしうるものです。主の恵み深さを味わい知りつつ本日はマルコによる福音書を開き、「罪と戦って」と題してキリストの救いを受けた者が歩む道を求めましょう。 ( PDFはこちら ) 1.つまずきを取り除く(42-48節)  マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は共観福音書と呼ばれており、3人の著者がそれぞれの角度から多くの共通する出来事を記しています。「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42)という衝撃的なたとえは、3つの福音書に共通して書き残されています(マタイ18:6、ルカ17:2)。  聖書で用いられている「つまずかせる」という言葉は、私たちが日常生活で「ちょっと気を悪くした」という程度の意味ではないのです。誰かをそそのかして「罪を犯させる」あるいは「信仰の道を諦めさせてしまう」という意味を持つ極めて深刻な動詞を用いて主イエスは弟子たちを戒めています。  主が言われる「これらの小さな者の一人」(42)とは単に存在が小さいとか弱者であるということではなく、「わたし」すなわち主なるキリストを信じる者を指しています。自分自身では力を持たず、ただ主なる神の前に全き信頼を注ぎ出している無防備な者です。  純粋に主を信じてこの世の力を頼みとしない信徒や求道者のことですから、真の信仰者であれば同じ立場にあるはずです。しかしキリスト以外のものを支えとして握っている者たちは不用意にもこれら他に支えをもたない人々を信仰の道からこの世の基準へ引きずり下ろそうとするも...

マルコによる福音書9章33–41節「すべての人に仕える者」

2026年7月26日 牧師 武石晃正  教会の子どもたちを見ているとできることが増えて力自慢をする一方、自らの限界を知り大人に頼ることも身に着けています。しかし大人は人に頼ることが難しくなり、自力で救いを獲得しようとする「自己中心的な古い自我」が現れがちです。  十字架の救いを脇に追いやらぬよう、聖霊の助けにより聖化の恵みを受けましょう。本日はマルコによる福音書を開き、受難を見据える主の語りかけから「すべての人に仕える者」という題で御言葉に聴きましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.だれがいちばん偉いか  主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤでの宣教の拠点であったカファルナウムの家に着かれました(33)。「高い山」で神の御子としての栄光を示され、麓で苦しむ少年をおいやしになった後、主は人に気づかれないようにガリラヤを通って来られました(30)。  ご自身の使命である受難の成就に集中されるとともに、身をもって心の痛みと体の苦しみをお引き受けになろうとしておられたのです。主イエスは道すがら弟子たちへご自分が人々の手に引き渡され、殺され、三日の後に復活するという二度目の受難予告をなさいました(31)。  全ての罪を贖ういけにえとなろうという十字架の道でありましたが、弟子たちは一緒に歩んでいたもののその思いは伴っておりませんでした。彼らは主のお言葉の意味が分からないばかりか、不都合な真理に向き合うことを恐れて「怖くて尋ねられなかった」と記されています(32)。  不都合な事柄に直面すると、人は無意識のうちに自分の知っている話題へと問題をすり替えてしまうことがあります。弟子たちは彼らの主の受難という重苦しい話題から目を背け、後継者は誰かと各自の実績や働きぶりを誇り合っては「だれがいちばん偉いか」と途中で議論していたのです(34)。  いくら主のため教会のためと銘を打っていたとしても、自分の奉仕の実績や献身を自らの功績として握りしめてしまうことはないでしょうか。もしそうなってしまうならば信徒であれ牧師であれ、十字架の前で「私は十分によくやったのだから救われるのだ」と主張する業績主義や自己義認の罪に陥ることになるのです。  世の競争社会の中で常に「何ができるのか」「どんな価値があるのか」と値踏みされては傷ついて、自分の力で立つことすらできないと絶望している方がおられるでしょうか...

マルコによる福音書9章14–29節「祈りによらなければ」

 2026年7月19日 牧師 武石晃正  もしキリストが肉体をもって地上におられた時代に私たちが生きていたなら、直接その御声を聞いたり悩みや苦しみをその場で訴えたりすることができたでしょうか。時に私たちは今の時代よりも当時の人々のほうがはるかに容易にかつ深く祈ることができたのではないかと思うことがあるものです。  果たして主と直接出会うことのできた当時の弟子たちや群衆は、現代の私たちよりも上手にそして正しく祈ることができていたのでしょうか。本日はマルコによる福音書を開き、「祈りによらなければ」と題して主の御前における信仰の根底を見つめなおしましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.なんと信仰のない時代なのか  ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人のみを伴って主イエスが「高い山」に登られ、そのお姿が真っ白に輝くという神の国の栄光を現された直後のことです。山のふもとで待ち受けていたのは、人間の不信仰と挫折が引き起こした大混乱の光景でした。  高い山での輝かしい主の変容を目の当たりにした一同が里へ下りてきて最初に目にしたのは、留守を任されていた9人の弟子たちが「大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」(14)という殺気立った騒乱でありました。議論とは書かれておりますがそれは決して対等な対話などではなく、困難な状況を前にして立ち往生する弟子たちを律法学者たちが一方的に責め立てて口論になっていたというのが真相のようです。  その混乱の中心にいたのは幼い時から「霊」に取りつかれ、所かまわず地面に引き倒されては泡を吹き、引きつけを起こして体を硬直させては苦しんでいる一人の息子です。その父親も親子どもどもに何年も苦しみ抜いてきたのです。  父親は霊を追い出してくださるよう弟子たちに頼みましたが、弟子たちにはそれができませんでした(18)。その失敗を見た律法学者たちは「ナザレのイエスがメシアを自称しているのは偽物であり、その名に力はない」という決定的な口実を見つけたとして、一斉に非難の声を浴びせた様子が目に浮かぶようです。  弟子たちとしては以前に「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6:13)という確かな「実績」があっただけに引っ込みがつかなかったわけです。彼らは主から授かった権威をまるで自分自身の力であるかのように錯覚しておりましたので、事の顛末...

マルコによる福音書8章22–26節「はっきり見えるように」

2026年7月12日 牧師 武石晃正  1909年7月11日を創立とする米子教会は117周年を数えます。昨年度は数年の遅れを取り返して創立百十周年記念誌を発刊し、草創期より礼拝場所を移しながらも主に仕え福音を宣べ伝えてきた教会を主がいかに恵みをもって導いてくださったのかを覚えました。  米子教会が現在の状態に至るまでに117年も要したこと、ことさらに傷や痛みの回復には主の恵みが注がれても長い年月を要したことです。独り子である神キリストが私たち人間と同じ姿で世にお生まれになり人間の成長や回復には時間がかかることを味わってくださったので、忍耐をもって教会とともに時間をかけて歩んでくださいました。  「私たちは今までこのようにやってきた」と人の営みを誇るなら、パン屑でいっぱいの籠を数えるだけだった弟子たちのように「目があっても見えない」者になるでしょう。本日はマルコによる福音書を開き、「はっきり見えるように」と題して私たちの弱さに寄り添われるキリストの恵みに思いを向けましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.人が見えます。木のようです  舟に乗った主イエスと弟子たちの一行がベトサイダに着いたところへ人々が一人の盲人を連れてきて、「触れていただきたいと願った」(22)ところから本日の箇所の話が始まります。当時のユダヤ社会では目が見えないことは本人あるいは親が犯した「罪の結果」であると考えられておりましたので、それだけで社会的に差別を受けておりました(ヨハネ9:2)。  したがって目の見えない人を癒すという行為は単に視力を回復させるという癒しのわざであるばかりでなく、旧約の預言者によれば罪を完全に赦す権威をもっている救い主のしるしです(イザヤ35:5-6)。しかし、主はその特別なみわざを人々に見せるためのしるしとして行うことをせず、この盲人の手を取り「村の外に連れ出し」(23)たのです。  奇跡を見世物にすることなく、主はここに苦しんでいる一人の人と向き合って親密な交わりをもってくださいました。村の外までこの人を連れて出たところで主は彼の目に唾をつけて両手を置かれました(23)。  唾をつけるという当時の民間療法とも共通する方法は、主イエスが高い天から一方的に命令を下すのではなく私たち人間と同じ地平に立っておられたことの証しです。神である方が人間の苦しみに自ら触れてくださり、...

マルコによる福音書8章14–21節「愛の実践を伴う信仰」

2026年7月5日 牧師 武石晃正  7月に入り台風の影響を受けながらも、ちょうど今の日本の季節は梅雨の最中です。湿度も気温も高い時期を迎えていますから、私たちは食中毒を防ぐために正しい手洗いを励行し、ふきんやまな板を漂白剤に漬け込むなど徹底的な殺菌や消毒をいたします。  聖書の時代には冷蔵庫や真空調理機などは当然ありませんので、ほんのわずかでも雑菌が残っていればそれがまたたく間に増殖して家全体を汚染してしまうこともあったでしょう。パンを焼くにも生の酵母でしたから、発酵を繰り返しながら使い続けることはとても気を付けなければならないものでした。  神の御前にきよく誠実でありたいと思っても、人の前で自分をよく見せたいという偽善や虚栄がほんの少しあるだけで生き方全体に膨らんでしまうこともあるものです。本日はマルコによる福音書を開き、「愛の実践を伴う信仰」と題してイエス・キリストの恵みの言葉に思いを深めましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.まだ、分からないのか  マルコによる福音書8章には主が7つのパンをもって4000人もの人々の空腹を満たし、7つの籠にいっぱいのパン屑を弟子たちに賜った出来事が記されています(1-10)。神のわざの品定めをしようと「天からのしるし」を求める者たちに背を向けて、主イエスは再び舟に乗って向こう岸へと去っていかれました(11-13)。  ここから本日の朗読箇所が始まり、一同が舟に乗って移動している場面です。弟子たちは重大な失敗に気づき、先ほどまで7つの籠にいっぱいあったはずのパンが一体どこへ忘れてきてしまったのか見当たらないのです。  とにかく「舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」(14)というのですから、この時の弟子たちの落ち着かない様子は並大抵のものではなかったでしょう。とはいえ彼らは自分たちだけで議論したり解決したりしようとするあまり、神の子である主イエスを蚊帳の外に追いやってしまったのでした。  本来であればたった一つであったとしても手のうちにあるパンを差し出して「主よ、パンが一つあります」と委ねればよかったのです。弟子たちは先生を煩わせてはならないと思ったのか怒らせてしまったと不安を覚えたのか、たった今ここで起こっている困難を正直に主の前に明かすことができませんでした。  そこで彼らの思いを見透かされた主イエスは弟子たち...

マルコによる福音書6章14–29節「約束に従って」

2026年6月28日 牧師 武石晃正  キリストを信じて何か良いことがあるのか、とあなたが信仰の証しをしたときに誰かから尋ねられたことはあるでしょうか。信仰者自身でさえこの世の価値観との間における葛藤や矛盾に悩んでは、苦しみばかり数えてしまうこともあるものです。  人間の体裁や立場を守ろうとすることから不条理な弾圧や迫害が引き起こされるという現実は聖書の時代から近現代に至るまで絶えることなく続いています。日本でも1942年6月26日に治安維持法違反の容疑から全国のホーリネス系教会の教師96名が一斉に検挙されるという「ホーリネス弾圧事件」が起こりました。  逮捕され拘置所に抑留された多くの教師たちは不当な取り調べによって心身に深い傷を負わされましたが、主イエスこそが世界の統治者として再び来られるという信仰が文字通り命をかけて受け継がれました。本日はマルコによる福音書から洗礼者ヨハネの殉教の箇所を開きつつ、「約束に従って」と題して神の確かな約束について御言葉に耳を傾けてまいりましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.「洗礼者ヨハネの首を」  主イエスの御名が各地に知れ渡り弟子たちが宣教に遣わされていたその頃、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは深い不安と恐れに怯えていました。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」(14)という人々の噂を耳にしたとき、ヘロデは「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」(16)と腹の底から身震いしたことです。  世の権威によって表向きは正当な手順を踏んでヨハネを処刑したつもりであっても、彼の心には決して消えない恐怖が付きまとっていたのです。そしてこのヨハネの身に起こった悲劇の背景には人間の醜い体裁と自己保身が絡み合っておりました。  自らの兄弟の妻であったヘロディアを妻に娶るという神の律法(レビ18:16)に反する不法な婚姻をヘロデは行っていました(17)。洗礼者ヨハネが「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」(18)と彼を厳しく糾弾したのは単に不道徳を責めたというよりも、律法における違反によってヘロデがユダヤ人を治める王としての資質に欠いていることを追及したのです。  面目をつぶされたヘロデは腹いせのようにヨハネを捕らえて牢につなぎました(17)。けれども「ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていた」(...

マルコによる福音書6章1–13節「神の言葉を聞こう」

2026年6月21日 牧師 武石晃正  私たちは日々そして主日ごとの礼拝において「神の言葉を聞く」という特権にあずかっています。共に祈り賛美をささげ、聖書を通して語られる主の御声に耳を傾けること、これこそが教会の命の源泉です。  しかし私たちが日々開くこの聖書は神の言葉を聞くことがいかに私たち自身の「人間の思い込み」によって阻まれやすいかという現実をも告げ知らせています。本日はマルコによる福音書を開き「神の言葉を聞こう」と題して主イエス・キリストの恵みを受け取る備えをいたしましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.この人は大工ではないか  「イエスはそこを去って」(1)と話が切り出されておりまして、本日の聖書箇所はイエスが会堂長ヤイロの家で娘をよみがえらせた奇跡の後の出来事として記されています。マタイやルカによる福音書に照らすならば、ナザレのイエスの評判がガリラヤ地方である程度行きわたった時点のようです。  そこで主イエスは弟子たちを引き連れてご自身が育たれた故郷ナザレにお帰りになりました。ガリラヤの町々でそうであったようにナザレでもイエスのおられる家や会堂の戸口に人垣ができるかと思いきや、どうも様子が異なるようです。  ナザレの人々にとってイエスという男はつい最近まで自分たちと同じ土埃の中で汗を流していた身近な労働者の一人でありました。彼らにしてみればマリアの息子であるイエスは父ヨセフの仕事を継いだ大工に過ぎず、「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」(3)と名があげられている弟たちそして妹たちを養うために汗水を垂らしていた男に過ぎなかったのです。  この人々が特別に不信仰であったと言い切ることできるでしょうか。安息日に会堂へ集まっていたのですから、彼らは実にまじめなユダヤ人でありました。  伝統的な信仰を正しく守っているという強い自負を持っていたからこそ、安息日の会堂でマリアの息子イエスが語り始められたとき「多くの人々はそれを聞いて、驚いて」つぶやいたのです(2)。そして彼らの驚きは救い主への賛美や奇跡の人への称賛ではなく、「なぜあの大工のせがれが、あのような知恵や奇跡を行えるのだ」という疑いと侮蔑に満ちたものでありました。  人々はイエスについて「マリアの息子」と呼びました。それは父親の家系を重視するユダヤ社会にあって珍しいことでありますから、単にマリアの夫ヨセフがすで...

マルコによる福音書5章1–20節「自分の家族のもとに」

2026年6月14日 牧師 武石晃正  早いもので教会暦においては聖霊降臨節第4主日を迎えました。聖霊の注ぎに与った教会がそれぞれの場所に遣わされて福音を宣べ伝えることを覚える季節です。  キリストが十字架で流された尊い血によってすべての罪に対する代価が支払われ、この知らせを聞いて信じる者は誰でも罪の贖いを受けるのです。私たちはイエス・キリストの福音を誰から聞いて誰に伝えることでしょうか、本日はマルコによる福音書を開き「自分の家族のもとに」と題して主から受けた恵みと使命を確かめましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.「向こう岸」へ渡った先  マルコによる福音書5章の冒頭には、「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」(1)とあります。この「一行」とは主イエスから「向こう岸に渡ろう」(4:35)と招かれ、ガリラヤ湖の激しい嵐の中を共に舟に乗った弟子たちのことです。  ユダヤ人である弟子たちにとってガリラヤ湖の「向こう岸」とはただの外国であるという意味だけではありませんでした。その地には異教の神々を拝んでいる人たちすなわち付き合いをしてはならない「異邦人」が住んでおり、実に「汚れた土地」であったのです。  弟子たちにとってその旅路は希望に満ちた新天地への船出というよりも、できれば足を運びたくないものであり、行先は避けて通りたい場所でありました。しかし主は自ら助けを求めることも湖を渡ってイエスのもとへ来ることも叶わない人々、深い暗闇の底にある魂をもお救いになろうとされました。  あえて弟子たちを伴って主イエスは墓場と豚の群れが広がる土地へと乗り込まれたのです。そして舟から上がられた主イエスの前に真っ先に現れたのは「汚れた霊に取りつかれた人」(2)でありました。  聖書は彼について「墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」(3)と記しています。人々は彼の驚異的な力を恐れて足枷や鎖で縛り上げようとしましたが、その度に鎖は引きちぎられてしまいました。  人間の力や権威ではこの人の魂を支配する深い闇を根本的に解決することはできなかったのです。彼は昼も夜も墓場や山で叫んでは石で自分の体を傷つけ続けていたというのですから(5)、心も体も痛み苦しんでいたことです。  生きていながらにして「墓場」という死の支配する領域に隔離され...

マルコによる福音書 1章29–39節「無学な普通の人」

2026年6月7日 牧師 武石晃正  毎年6月にホーリネスの群では「四重の福音強調月間」として特色教理である「四重の福音」(新生・聖化・神癒・再臨)を覚えます。もとはアメリカのA.B.シンプソン牧師がキリストについて「救い主」「きよめ主」「癒し主」「再臨の王」の4つの側面から説いた「四重の福音」(Fourfold Gospel)でありました。  アメリカで学びウェスレアン・ホーリネス運動の影響を受けた中田重治監督がホーリネス主義化された「四重の福音」を日本へもたらしました。そしてホーリネスの群の前身である東洋宣教会が「救い、聖潔、主の再臨、神癒」を説いたことで、一般大衆に理解できるキリストの福音が宣べ伝えられました。  昨年度は四重の福音のうち聖化についてさらに強調いたしましたが、今年は神癒について意識を向けてまいります。そして本日は聖霊降臨節第3主日にあたりマルコによる福音書を開きつつ、「無学な普通の人」と題して「聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」たナザレのイエスとその弟子たちの歩みに思いを深めましょう。 ( PDF版はこちら ) 1. 主に招かれた無学な普通の人  朗読箇所はカファルナウムのシモンとアンデレの家へ主イエスが弟子たちを率いて向われるところから始まります。「ヤコブとヨハネも一緒であった」(29)とあるように弟子たちは4人の漁師たちであり、ユダヤの教えを受けて育ちイエスに招かれたとはいえ無学な普通の人たちでありました。  「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていた」(30)ことをイエスに伝えに来た人々とはその家の者たちでしょうか。客人を出迎えたり食事の支度をしたりするはずの「おかみさん」が病気で倒れてしまったのですから、本来であれば「本日のところはおいでいただいてももてなしの一つもできません」と詫びの挨拶をするような場面です。  何と言って彼らに答えたのかは記されておりませんが、とにかく主は弟子たちを連れて熱病で伏せっているシモン・ペトロの姑を見舞われました。愛する弟子の家を訪れた主イエスが彼女の手を取って起こされると、たちまちその熱が下がったのです。  するとペトロの姑はすぐに起き上がり、一同をもてなし始めました(31)。病み上がりにこき使われたということではなく、内側から与えられた神の恵みの力によって喜びと感謝に満たされて踊るようにもてなす姿...

ローマの信徒への手紙8章12-17節「キリストと共同の相続人」

2026年5月31日 牧師 武石晃正  先週の主日はペンテコステの礼拝として主の聖霊が教会に降ったことを覚えて感謝をもって祝いました。主イエスは天に昇られる前に弟子たちに約束されたとおり、あのペンテコステの日に聖霊を豊かに注いでくださったのです。  その日から使徒たちを中心としたキリストの弟子たちは力強く主の十字架と復活を宣べ伝え始め、この地上にキリストの体である教会が息づき始めました。本日は聖霊降臨節第2主日にあたりローマの信徒への手紙を開いて、「キリストと共同の相続人」すなわち神の子とされた恵みと希望をしっかりと受け取りましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.罪の奴隷から神の子へ  使徒言行録を読みますと、あるときには一日に3000人もの大勢の人々が悔い改めて洗礼を受け弟子に加わったという目覚ましい出来事が記されています(使徒2:41)。神の霊が働き教会が力強く前進していく様子には、私たちも大きな希望を胸に抱くところです。  しかしながら、神の霊を受けた弟子たちはその後の歩みにおいてすべてのことを順調に何の葛藤もなく進めることができたのでしょうか。実はそうではなかったのです。  ガリラヤの地で主イエスの弟子とされた者たちをはじめ、福音書に記されている人々の多くはユダヤ人でありました。彼らは生まれながらにして契約の民イスラエルであり、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命6:4)との招きを受けた「神の民」であることがわかります。  彼らはキリストに出会う前から「律法」と呼ばれる掟を啓示として受けて生きてきた人々です。聖霊を受けてキリスト者となった後も、彼らの内面には長年培われてきた律法へのこだわりと新しく与えられた霊の自由との間で激しい葛藤が続いておりました。  生い立ちにおいて私たちはガリラヤの人々とは全く異なりますが、一歩礼拝堂の外に出るならば信仰の思いと現実の生活との間に葛藤や矛盾という難題を抱えるものです。生まれながらの性質と聖霊によって新しく生まれた事実との隔たりという点において、主の弟子たちが直面した課題が現代の日本に生きる私たちにも立ちはだかっているわけです。  使徒パウロがローマの信徒への手紙7章で説いているように、神が与えられた律法そのものは聖なるものであり善いものです。なぜなら神の律法は神の言葉であり、神の御心が示されてい...

使徒言行録2章1-13節「聖霊に満たされ」

2026年5月24日 牧師 武石晃正  ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステは十字架と復活の主イエスが天に昇られた後、地上に残された弟子たちへ約束どおり聖霊をお与えになったことの記念日です。  日本では田植えが終わる頃に冬小麦の収穫を迎えるように、聖書の時代にも五旬祭ともよばれるペンテコステの時期はパン種を入れて焼いた小麦のパンで収穫を喜ぶものでした。キリストの体としての「教会」という共同体が地上に産声を上げた記念日を祝いつつ、本日は使徒言行録を中心に「聖霊に満たされ」と題して救いの恵みと喜びを味わいましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.教会に吹き込まれた神の霊  使徒言行録1章を振り返りますと、十字架にかかり復活された主イエスは40日にわたって弟子たちへ神の国について語られました。しかし天に昇られようとしている主を前にして、弟子たちは「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(1:6)と、依然として目に見える現世的な王国の復興を期待して気がはやっておりました。  これに対し主イエスは時や時期は父なる神の権威にあるとした上で、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(1:8)と約束されました。主は地上における政治的な支配の回復ではなく、聖霊の降臨による内面からの真の「神の国」の到来を約束されたのです。  昇天からペンテコステまでの約10日間、弟子たちはいつ約束が成就するのか具体的な時期を知らないままエルサレムにある家の上の部屋で心を合わせてひたすらに祈りつつ待ち望みました(1:13)。この人間の計画を捨ててただ神の介入を信じて待つという姿勢は、現代の私たちが主の再臨を待ち望みつつ生きる歩みの原型となっています。  いよいよ「五旬祭の日が来て」(2;1)と記されるこの日は、ユダヤの三大祭りの一つである「七週祭」にあたります(申16:16)。過越祭から7週間が過ぎて50日目にあたるため、ギリシア語ではこの祭を五旬祭すなわちペンテコステと呼んでいます。  「過越祭と言われている除酵祭」(ルカ22:1)は大麦の収穫の時期である一方、五旬祭すなわち「七週祭」には小麦の収穫を迎えます(出34:22)。種なしパンを食べる期間から50日が経過し、日常生活に戻って新しいパン種が十分に発酵した頃合いでふっくらと焼いた新しい小麦のパンを捧...

ヨハネによる福音書17章1-13節「わたしはみもとに参ります」

 2026年5月17日 牧師 武石晃正  日野川の豊かな流れが大地を潤し、平地ばかりでなく山間に至るまで田植えの様子が広がっています。植え付けるまでにも心得のない者から見れば気が遠くなるほどの働きが積まれていることを覚えます。  当然ながら植え付けて終わりなのではなく、そこからさらに多くの苦労が重ねられた先に豊かな実りと収穫が待ち望まれるのです。救いの恵みは田植えに似たところがありまして、主なる神が信仰という苗を私たちの内に植え付けてくださるところから始まります。  ただキリストを信じる信仰によって救いの恵みをいただいただけでなく、信仰者はそこから豊かに実を結び、来るべき日の収穫を待つのです。本日はヨハネによる福音書を中心に「わたしはみもとに参ります」と題し、初穂であるキリストの復活と再臨の希望を確かめましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.御父のみもとへ帰るキリスト  復活されてからの40日間、イエス・キリストは弟子たちに姿を現して神の国について語られました(使徒1:3)。そして弟子たちが見つめる中で、オリーブ山から天へと昇っていかれました(同9)。  本日は復活節第7主日として間近に迫るペンテコステを覚えつつ、聖霊降臨を待ち望む思いを携えて礼拝を捧げています。この礼拝において私たちはヨハネによる福音書17章より主が十字架にかかられる前夜、弟子たちと共にされた最後の晩餐の席で捧げられた「大祭司の祈り」に思いを寄せるところです。  この祈りの中で主はこれから起こるご自身の受難と死、復活、そして天へ帰るために挙げられることを御父の前に数え上げながら告白しています。そして天を仰いで「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」(ヨハネ17:11)と弟子たちの耳にも届くように祈られました。  短くも力強い言葉には、私たちの信仰の根本的な真理が込められています。キリストが天のみもとに帰られるということは決して地上での使命から逃げ出すことでもなければ、弟子たちを置き去りにすることでもないのです。  そこにあるのは「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(5)という願いです。キリストがもともと天から遣わされたまことの神の御子であることが全世界に向けて明らかにされるため...

ヨハネによる福音書16章12-24節「真理の霊が来る」

2026年5月10日 牧師 武石晃正  5月の第2日曜日は「母の日」として教会ばかりでなく世の中の多くの人々も母に感謝をいたします。日本の法律の上では5月5日に「母に感謝する日」と定めがありますますので、母への感謝に感謝を重ねて覚えることであります。  一方で教会暦ではイースターの喜ばしい朝から数週間が経過し、私たちの歩みは復活節の第6主日を迎えました。本日はヨハネによる福音書を開き、「真理の霊が来る」と題して主の復活と再臨に思いを深めてまいりましょう。 (PDF版はこちら) 1.キリストを見なくなることによる悲しみ  朗読の箇所は主イエスが十字架に架かられる前夜、弟子たちと最後の食事を共にしながら語られた告別の説教の場面です。明日には十字架の死が迫っているという極限の状況の中で、主イエスは愛する弟子たちに向かっておもむろに語られました。  もしあなたが最も信頼している方から「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」(12)と打ち明けられたなら、一体どのような気持ちを抱くでしょうか。原文の言葉を直訳するならば、この一言には「あなたがたは今、それに耐えることができない」という重い響きがあるのです。  3年間あまりの年月を弟子たちはこれまですっと主イエスと寝食を共にし、数々の奇跡を目の当たりにしては神の国の福音を聞いてきました。しかし、いざ彼らの主が十字架につけられてこの地上から去っていこうとされるという現実を前にして、彼らの理解力と信仰は完全に限界に達していたことであります。  「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」(16)とのお言葉は、その真の意味が分からなくとも弟子たちの心に非常に深い絶望と悲しみの影を落とすのです。いつも頼りにしていた方が暴力と死によって彼らのもとから奪い去られ、もはや見えなくなってしまうというのです。  しかし、この「わたしを見なくなる」という耐え難い悲しみと喪失の経験は決して2000年前の弟子たちだけのものではないのです。私たち一人ひとりの歩みの中にも、まさに「今は耐えられない」と叫びたくなるような重圧や孤独、そして喪失という現実が横たわっています。  教会の交わりにおいて、長く共に信仰の歩みをしてきた敬愛する者たちを天へと見送ることが起こります。愛する信仰の友の姿がこの礼拝堂から見えなくなり...

ヨハネによる福音書15章1-11節「豊かに実を結ぶ」

2026年5月3日 牧師 武石晃正  復活節第5主日と教会暦で数えておりますが、この復活節とはキリストの復活を祝うイースターを起点としてペンテコステに至る50日の期間です。旧約の律法の書に照らすと民の贖いである過越祭から御言葉が与えられたことを覚える七週祭までの期間に重なります。  新年度を迎えて5週目でもあり、私たち米子教会は先週の主日礼拝の後に定期教会総会を主の前に捧げたところです。主に結ばれて一つとされた教会として私たち一人ひとりの歩みが確かなものとなるように、本日はヨハネによる福音書を開きつつ「豊かに実を結ぶ」と題して御言葉の恵みに浴しましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.豊かな実りと聖化  聖書の巻末に収められている略地図を開きますと、主イエス・キリストが歩まれた地が示されています。いわゆるパレスチナと呼ばれるその地域は旧約の時代から現代に至るまで国や民族の間での争いが絶えず、憎しみと悲しみが渦巻く場所です。  連日のように報じられる国際情勢のニュースを見るにつけ、人間の抱える罪の深さと真の平和への道のりの険しさを痛感するばかりです。しかし神の御子はそのような争いの真っただ中に生身の人間として来られました。  人となられた神はこの世において最も暗く、最も痛みの多い場所に身を置かれたのです。そこで神の国の福音を語り、罪のない方が十字架への道を進まれたのです。  朗読の箇所は主イエスが十字架に架けられる直前、弟子たちと共にされた過越の食事の場面です。迫り来る裏切りと死の影の中で、主イエスはご自身と後に残される信仰者たちとの決定的な結びつきについて「ぶどうの木と枝」のたとえをもって教えられました。  「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1)との短い宣言の中に信仰生活における極めて重要な真理が隠されています。ここで私たちはついぶどうの木の「枝」の状態やどれほど立派な実をつけるのかという成果のほうに気を取られがちですが、主がここで中心に置かれているのは「農夫」すなわちぶどう園の全体を管理する者である父なる神の絶対的な権威です。  ぶどうの木という台木もそこに接ぎ木されている枝も、すべては農夫の所有物です。農夫はどの枝を取り除きどの枝を残すか、栽培におけるすべての権能を握っています。  2節には「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな...

ヨハネによる福音書13章31-35節「神は愛です」

2026年4月26日 牧師 武石晃正  復活節第4主日を迎えました。主イエス・キリストが死の暗闇を打ち破り、三日目によみがえられたイースターの圧倒的な喜びから引き続いて、私たちは復活の主が共におられるという確かさの中を歩んでおります。  大牧者であり羊の門として主イエスが私たちを守ってくださることを覚えては、弱い羊のような私たちはこの方の声を聞き分けます。ご自身の命を懸けて守り導いてくださるキリストの深い慰めを胸に抱きつつ、本日はヨハネによる福音書を中心に「神は愛です」と題して主から賜った掟に心を注ぎましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.あなたがたも互いに愛し合いなさい  ヨハネによる福音書13章は主イエスが十字架に架けられる前夜、弟子たちと共にした最後の晩餐の場面です。この食卓で主は手ぬぐいを腰にまとい、弟子たちの汚れた足を自ら洗うという最も低く仕える姿で愛を示されました(13:5)。  その恵みに満ちた空間から一人の弟子が背を向け、イスカリオテのユダは裏切りのため満月がギラギラと照らす夜の都へと出て行きました(30)。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」(31)と、主イエスは残された弟子たちに向かって語り始められます。  「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」(31)と語られた時、弟子たちは彼らの主が明日にでもイスラエルの王となることを期待したでしょう。ところが愛する弟子の裏切りという人間的な目で見れば完全な絶望と敗北のどん底において、主イエスは「今や、栄光を受けた」と宣言されたことです。  ここで主イエスが語る「栄光」とは、ご自身の命を十字架に捧げ尽くすことによって全うされる神の底知れぬ愛の現れのことでありました。その十字架の栄光すなわちご自身の死を見据えながら、主は弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える」(34)と大切な掟を授けられたのです。  「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34)と、主は重ねて「互いに愛し合いなさい」と命じておられます。この主の言葉を私たちの現代の歩みの中でどのように受け止め生きるべきかを掘り下げてみましょう。  まず私たちはこの「互いに」という言葉について、無意識のうちにも人間社会の常識である「お互い様」の関係性を思い浮かべるので...

ヨハネによる福音書10章7-18節「大牧者がお見えになる」

2026年4月19日 牧師 武石晃正  復活節第3主日を迎えました。主イエス・キリストが死人のうちよりよみがえられたイースターの喜びから引き続き、主の復活の命と恵みにあずかる期間として歩んでおります。  新年度に入って3度目の主日であり、次週には私たち米子教会は2026年度を教会として主に捧げるべく定期教会総会を行おうとしています。本日はヨハネによる福音書を開いて「羊の門」また「良い羊飼い」にたとえられた主イエスご自身を覚えつつ、「大牧者がお見えになる」と題してキリストの体なる教会と信仰者自身の歩みについて思い巡らせましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.わたしは羊の門である  「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」(7)と主イエス・キリストはご自身について宣言されました。とはいえ福音書の読者である現代の日本に生きる私たちにとって、羊や羊飼いの姿を日常的に目にする機会はほとんどないことも事実です。  福音書に記されている時代の古代中東の社会では、羊飼いと羊の関係は文字通り命を繋ぐ最も身近で絶対的なものでありました。まず思い起こしていただきたいのは、羊という動物が皆様もご存知のように自らを守る牙も鋭い爪も持っていないということです。  力ばかりか視力も弱いため、羊たちは羊飼いが導かなければ豊かな牧草を見つけることも澄んだ水場にたどり着くこともできないのです。そして何より、荒野を徘徊する狼や羊を奪おうとする盗人たちから身を守るすべを羊は一切持っていないわけです。  聖書は私たち人間の真の姿をこの羊に例えています。現代社会は一見すると非常に豊かで安全で、高度な仕組みに守られているように見えますが、病や肉体の衰えなどの困難は狼のように突如として襲いかかってくるものです。  一歩礼拝堂の外に出て現実の生活に向き合えば、職場で毎日のようにのしかかる責任と重圧、誰にも理解されない心の奥底の深い孤独という困難が私たちを待ち受けています。これらはすべて私たちの命と魂を脅かす「狼」のようであり、実に私たちは自分自身の力では自分を守り切ることのできない弱い羊であることを思い知るところです。  古代の羊飼いたちは野営をする際に石を積み上げて囲いを作りました。扉のない囲いの入り口に羊飼い自身が自らの体を横たえて眠ることで、か弱い羊たちを守ります。  羊飼いの肉体そのものが「門」となる...

ヨハネによる福音書20章19-31節「日々新たにされて」

2026年4月12日 牧師 武石晃正  復活節第2主日の礼拝を迎えました。先週はイースター礼拝として教会の最大の喜びである主イエス・キリストの復活を祝う礼拝をいたしました。  実際に死人がよみがえったことを目の当たりにしたことがない者としては復活と聞いても俄かには信じがたいものではあります。けれども聖書の言葉を信じる私たちには主の復活の喜びが、死の力を打ち破り永遠の命がもたらされた希望が心に満ちているのです。  一方で私たちがひとたびこの礼拝堂から一歩外に出ればそこには病や肉体の衰え、生活の重圧などの自らの力ではどうすることもできない不安が待ち受けているのも事実です。本日はヨハネによる福音書を中心に「日々新たにされて」と題し、失望と恐れの中に現わされたイエス・キリストの復活の恵みを求めてまいりましょう。 ( PDF版はこちら ) 1.「信じる者になりなさい」  世界で最初のイースターの朝、そこにあったのは喜びに満ち溢れた祝祭の空気ではなく、むしろ深く重い恐れと暗い不安に包まれた弟子たちの姿でした。主イエスが十字架におかかりになったあの過酷な金曜日から三日目である「週の初めの日」のことです。  主イエスが復活されたという知らせはマグダラのマリアたちを通してすでに一部の弟子たちの耳に届いてはいました(2)。その弟子たちについてヨハネによる福音書は「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19)と記しています。  弟子たちは、師である主イエスがあのような残酷な十字架刑で処刑された以上、次は自分たちが捕らえられ同じように殺されるのではないかという死の恐怖で身をすくませていました。それと同時に、主イエスが捕らえられた時、自分たちが見捨てて逃げ出してしまったという深い罪悪感と自己嫌悪に苛まれていたことでしょう。  「もし本当に主イエスが復活されたのなら、あんな風に裏切って逃げ出した私たちをきっとお見捨てになるに違いない。厳しくお叱りになるに違いない」。そのような恐れも、彼らを部屋の奥へと閉じ込めていた大きな要因であったのではないでしょうか。  なんとそこへ彼らの主が真ん中に立って「『あなたがたに平和があるように』と言われた」(19)のです。頑丈に掛けられた物理的な鍵も彼らの心を満たしていた恐怖や不信仰の壁も、もはや...